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昆虫綺譚(ジャポニカ学習帳のこと)

—— これは以前にある場所に掲載していた内容で、情報としては古いものではありますが掲載致します。既にご存知の方も多いとは思いますが、なんの話かといいますと「ジャポニカ学習帳」の話です。もう何年も前になりますが、あの有名な昆虫の写真が、ジャポニカ学習帳の表紙から消えました。

表紙から昆虫が消えたのは2012年、その後2020年に復活して現在は昆虫の表紙も存在しています。この文章を書いたのは2014年の頃です。──


唐突ですが、私は蜘蛛が苦手です。これを言うと皆に笑われたりするのですが、その影響で実は蟹も苦手です。蟹を見ると、どうしても虫に見えてしまって、毛ガニは特に蜘蛛に見えてしまって手が出ません。でも蟹の味は確かに美味しいですけどね。古代の人間は、よくこんな生物を食べてみようだなんて思えたものだなと、実にその勇気を讃えますね。

そんな私でも子供の頃。様々な図鑑が大好きでした。その中には、昆虫大図鑑もありました。様々な世界中の昆虫が鮮明な絵や写真で掲載されていて、日本ではまず見られない不思議な虫達の形状や、奇跡とも言える色彩や柄。

そこにはもちろん蜘蛛の写真のアップもありました。複眼の丸くピカピカした真っ黒の目がいくつも輝いていて、長く恐ろしいほどの足や肥えた体には、フサフサと毛が生えていて悪魔のようにも見え、それでもあの丸い目から、なんだか優しい性質のようなものも感じていました。数万、数億と子供を産み、それをまた護る親蜘蛛。

六本木ヒルズのオープニングパーティーの時に一目惚れをした巨大なオブジェ作品「ママン」それ以来、行く度に庭のメインで出迎えられるあの蜘蛛の作品は個人的にとても大好きな作品です。作者の意図は知りませんが、あの母性と生命を表した象徴には、特に個性としての顔のような部分は無く見えて、ただ一心に命を護る姿に、まさに命そのものを感じます。

田舎育ちでもある私は蜘蛛は身近な生物として、攻撃的ではない家蜘蛛はいつも居ましたし、またその個体からはいつもとても優しい性質をいつも感じていたこともありました。昆虫図鑑でもなぜか怖いのに見てしまうのですよね。大嫌いでありながら、その生態の中に生命の“ものすごさ”をいつも感じていました。


自然の中で生きていた少年時代、夏の朝は蜘蛛の巣が朝露を浴びてキラキラと輝いたり、その辺をただ歩いただけでも顔面や体のどこかに蜘蛛の巣が絡み付いたりするのは、渋谷の交差点で人の肩にぶつかっても、何も言わず気にもとめず、ましてや肩があたってもむしろ、それがオレの個性としての主張だなどと言わんばかりな感じで、強く押し付いて来る青年男性の未熟な存在表明よりも、蜘蛛の巣が顔にかぶさってくることは、いかにも日常的で普通であり、この惑星で生きる常識でありました。

いま大人の年齢になって都市部でほぼ生きるようになってからは、あんなに自然に遊んでいたカブトムシもクワガタも、いつのまにか触ることを怖れるようになってしまいましたし、今では蚊でさえも殺せなくなってしまった私という一人の人間がいることも現実なのですが、子供の頃に関心を示していた昆虫という生物へのリスペクトは今でも変わらずに持ち続けています。


蝶の羽の美しさ。蝉の羽化の美しさ。それと同じくして、その蝶や蝉を間近で見る気持ち悪さや、蝉の場合はおしっこにも困りましたね。田舎というか自然の中で育つ大切さは、子供心にでもそれはとても大切なことだと直感というよりも本能で認識していた気がします。

どんな書籍やゲームや物語、映像や絵画の美しさ、それこそ知育おもちゃや教育プログラムなどと比較しても、ただ自然の中で数時間だけでも風や陽を浴びてただ過ごす。それだけでもそんな作り物よりも何万倍もの情報量があると思うのです。五感としてももちろんですが、細菌や微粒子との触れ合いも、それこそ五感を越えた感覚としても、限りない刺激と感動とを兼ね備えた原子で感じる情報。

私の育った環境は、あまりおもちゃとかゲームもありませんでした。自然の中で森や田んぼや小川や木片、土、泥、草、空気や太陽や雲、朝と夜のつなぎ目や、陽の匂いや蛙や虫の音なども、そのすべてが遊び場であり遊び道具でした。小石や折れた枝がまさにおもちゃでしたし、裸足で足の裏から感じて吸収し学ぶという自然の中で遊ぶことがなによりものゲームであり教育でした。

そんな自然な日常の中で一番、異世界の物体と感じるもの、それが昆虫でした。


日本だからこそとは言えますが、毒を持つ昆虫種が少ないこともあります。最近は外来種も増えてしまったので、生態系も複雑ですし、土にしても人間自らが汚染を広げていますから、口の中に入れる子供を現代の親御さんは、確かに危険視してもよいと思いますが、私はそんな自然の中で遊びながら育ち、ある意味で、そんな土や菌を食べてその生命情報を吸収し、感じ学びました。

虫は他のどの動物よりもカラフルで、存在自体わけわかんなくて、だけど空にも土にも、上にも下にも外にも中にも、どこかに虫は常に居て、かっこよかったり気持ち悪かったり、悪魔のような生物を組み合わせたような生態や、一生を通じて変態していく様や、鳴き声や羽の音がやたら綺麗だったり、足とかがもげてもまだ生きてたり、尚かつ手頃な大きさで動きや性質も正直言って、子供にとってこれほど面白く興味を惹かれる要素を兼ね備えた研究対象とも呼べる物体はありません。子供には最高のおもちゃです。

そのおもちゃを通じて、今思うのは、もっとも最大で身近な勉強キットでもあったなぁということです。そんな自然そのものの中で育つと「虫で遊んだ」という感覚では無いんですよね。


森にも木にも水にも土や石や植物も小動物達へも同じ感覚なんですが、今となって思い返すと、とても大きな心といのちに護られていたんだなって感じるんです。その中でも昆虫はもっとも身近で、その感覚を言葉で表すならば、決して「遊んだ」では無いのですよね。言い表すのならばそれは、子供の頃「虫に遊んでもらった」なぁっていう感覚なんです。

そしてまた、虫というのは簡単に死んじゃうんです。首や体や足も簡単にもげちゃうし、それでも動いているし。手の平の上で気持ち悪い液体を出しながらも、虫は結構簡単に「死体」になるのです。夏のお盆を過ぎた頃なんかは、至る所に蝉が転がって死んでいます。あれは蝉でもあるけれど、あれってもう「死体」なんですよね。それをまたアリが運んだりもしている。

もう死体だらけですし、また多くの子供はそれを見てそこにきっと生まれて始めて「死」を学ぶのです。そして死を知るということは同時に「生」や「命」を学ぶことなのだと感じます。そして子供は特にですが、昆虫を殺してしまうことも多いものです。とはいえ、大人が殺虫剤などの化学薬品で虫を殺すほうが断然多いですけれどね。しかも大人はそこからなにかを学ぼうとはしていないように思えます。


あの過激で攻撃的な性質の人間の集まった動物愛護系とかの集団のような昆虫愛護団体なんてのがあったら、世界中の殆どの人間が責められてしまって、普通に生きようとする人間は、ほんと地球には住めなくなりそうですよね。家畜と呼ばれる肉を殺生して食べるのも生命の根源であると同じ様に、手の平の上の昆虫の死骸もまたリアリズムであり、まさに生命のダイナミズムです。

ゲームやおたくアニメや、稚拙であったり自己中心的な私小説や恋愛ポエムや、寄付金集めビジネス商法のような独善的な平和観念や、そういった一部の動物への偏った正義感などからなる見え透いた愛や平和活動、現代人の未熟な自愛性のセンチメンタリズムでは語れない真の生命のダイナミズムがそこにある。子供の頃に本当は土の上で木々の側で育ち遊ぶことが出来ていた生き方なら、ただただ誰もが学ぶことのできた生と死の自然の生命のダイナミズムです。

本当に恐いのは、そういう虫も殺さぬようなことを言いながら、血の滴る肉喰って、クソして屁をひって、食べ残しを簡単に捨ててまた「ああわたしはか弱い存在」だとか「犬や猫がかわいそう」なんて言ってる人を見る時こそ、私は恐怖に震えますね。

肉は可哀想だから食べないだとか言いながら、魚や植物の命や意思に気がつかない。ましてや雑草や雑菌や害虫は薬物で簡単に消し去って、そんな生活を清潔感ある優位性とでも思っている暮らしっぷり。そんな感性の乏しさにこそ、身震いするほどの恐怖を私は覚えます。

そんな現代に失われ行く生命のダイナミズム。その昆虫というおもちゃを通じて、虫に対して今思うのは、もっとも最大で身近な智育であり、生命を通しての勉強でもあったなぁということです。


生命の実体の可能性の凄さ、その反面の生命の存在の脆さ、それを通して覚える生命の大切さ、その全てを昆虫からは学べます。そして、どんな人工物や子供向けのおもちゃや教材よりもはるかに、不思議で奇妙で面白く、ユニークでカラフルな存在。子供にとって興味を惹く要素が100%なんです。

その上で、それが自然物で生命であるということ。そう現代商業社会的なことを言えば、その教材や玩具は「タダ」なんです。そんな無料の虫達は、お金では換えられないほどの豊かな生命なのですよね。私も子供の頃に使っていたあのジャポニカ学習帳の表紙は、それをふまえての表紙だったと私は思います。

昆虫の表紙が廃止になった理由は、父母からの「クレーム」でした。21世紀に入ったある時期から「昆虫の写真が子供が怖がる」という同様のクレームが多くなった為です。

そう、私も図鑑の蜘蛛のページは恐かったです。でも実は今、大人になって覚えているのは、あの蜘蛛の写真です。不思議と結果は、つまりは一番多く見たページだったのです。恐いという印象はまた、それほどの興味を持つということと同様ということです。

…… というよりも、一言言いたい。子供が怖がるって? それ、子供じゃなくて、お母さん!あんたの感情でしょ!? たぶん殆どは根源まで心理的に掘り下げてみると、子供ではなくて、親が怖がっているのだと思うのですよね。それをヌケヌケと子供を使ってクレームしてくる。いかにも子供の為だと言う口ぶりで。

確かに、昆虫を怖がるというのは、一部の感性として、私は正常な感覚でもあると思います。そして個性として、先天的に昆虫をどうしても恐怖感を抱いてしまうということも少なからず、そういう児童もいることでしょう。そうなんです。それで正常なんです。だって虫って確かに怖い要素も満載ですからね。しかし本当はその子達は、怖がっているのではないのではないでしょうか。

実は、子供の趣向や恐怖心というものの大半は、その恐怖心は親などの周りの大人が植え付けたのだと考えて、ほぼ間違いないのです。「虫は危険で恐いものだ」とか「虫は気持ち悪くて汚い」などの感覚や認識を幼くして埋込まれた可能性は高いのです。『ママが怖がっているからこれは怖いものだ』『ママが虫は怖いから触っちゃいけないと言ったから』などという前提があるものだと思うのです。そしてこういうのはいつの時代も世の常です。

しかし、親であるならば、ニンジンを嫌い!という子供に「そうだね。ニンジンは食べなくていいよね!」とは、決して言わないはずですよね。すりおろしたり調理法を変えたりして、徐々に慣らしていくことでしょう。

ましてや「ニンジンなんか置くな!子供が嫌がる!」などと、八百屋さんやスーパーにクレームしないでしょう? そんな一部の声により、昆虫の表紙は廃止されました。


私の個人的な見解ですが、子供にとって一番、勉強になる表紙が無くなった。子供のことを本当に思って企画された商品が、この世からまたひとつ無くなった。ハッキリと、そう思っています。昨今、そういうのばっかりです。本当に子供の事や人類の事、平和の事や生活の事。そういうのを本当に思って作られた企画こそが、どんどん無くなっていく。

残るのは、広告ばかりの平和や絆や、いいとこばかりを見せてそのリスクは隠したような教材やサービスや食品。どこぞの教授だかなんだかが必ず後援だか推奨だとかと、心の無い推薦文が付けられて。まるで副作用を隠して処方されている薬品のような、押し付けられた毒薬のありがたさ… そんなものを善かれと繋がって乗ってしまうような親達ばかりが目立つようになってしまった気がします。

自身の欲を、子供の善意に押し付けるな。押し付けるなら、希望や可能性や、それこそ躾。安全ばかりのふぬけにしないでほしい。子供はもっと可能性をみんな抱えて生まれてきているのに。


子供は昆虫を基本的には怖がりません。怖がっているように見えるその反応は「未知」のものだからでしょう。それは恐怖ではないのです。それは好奇心です。その純粋で知性的で大切な反応を摘み取らないでほしい。

もっと言わせてもらえば、そういう親御さんは、子供の知性を理解できていないんです。そこに気がつけないのであるならば、その親御さんの知性を遥かに越えているのだと思いますよ。


昆虫は“ものすごさ”の固まりです。

そして、子供こそ知性の固まりなんです。


「世の有名な天才とよばれる人の大多数は皆、昆虫に非常に高い興味を示していた人が多いです。」そんな事実を、そういう親御さんだからこそ、これを訊けば、意見も変わるのではないでしょうか?

馬鹿にしているわけではないですが、きっとその程度の次元で物事をお考えなのではないでしょうか。と感じています。いま現実に目の前に居る子供のことなど、きっと目にしていないのです。その子の言動も好奇心や特徴や傾向も、それよりもきっとなにかの受け売り的な架空の標準値に照らし合わせて、親のエゴのほうが多いのではないかと思えてしまいます。

「世の有名な天才とよばれる人の大多数は皆、昆虫に非常に高い興味を示していた人が多い。」それが主流になってしまったなら、またそれはそれで今度は、嫌がる子供に無理矢理昆虫採集をさせるなどの事例が出てくるのが現在の社会でしょうから、本当に心ある専門家や研究者や親御様は、こんな時代は可能な限り寡黙になることがベストだとも思えてしまいます。


私個人としては、純粋にあのジャポニカ学習帳の昆虫の表紙シリーズは、とても好きでしたね。確かに、本当にその写真には生き物(いきもの)のリアリズムが息づいていて、あの小さな虫と自然の中で遊んでもらう時とは違い、もっと接写で、かなり細部なども鮮明に表されていたので、それがまた恐る恐るどうしても気になって、目が釘付けになるんですよね。

そして、生体や生命そのもののダイナミズムを学びました。ここで言う「生命のダイナミズム」とは、生命への畏怖であり、またそれは即ち「生命への尊敬」なのです。

表紙が無くなる事についても確かに悲しい結果ですが、表紙である必要性に対して云々というわけではなく。このような結果となってしまう時代。そしてなによりも最も憂うべきだと言いたいのは、人類の感性そのものの低下です。即ち「生命への尊敬」という感性自体に危機感を覚えるのです。


ここまでの内容は、以前に他所にて掲載していた内容を添削・編集したものです。そして、その後の2015年。ジャポニカ学習帳の昆虫の表紙が復活しました。

先述したように一般からの声によって、一時期廃止されていた昆虫の表紙ですが、その後、数多くの復活を望む声により、昆虫の表紙が再び発売されたようです。

この話はきっと、昆虫や表紙などの話に限定する内容ではなく、様々な同じような人間の性質や言動、時に愚行とも思えるような行いを代表するひとつの現実として感じ、また考える機会を表出させてくれたと私は感じます。現に、当時この記事を掲載していた頃にも、検索から多くのアクセスがありました。コメントやメッセージ等も数多くいただきました。

政治でも商業でも、そして身近な生活や出来事でも、簡単になんでも声高に感情を個体レベルで主張する人間が多くなってしまい、慎重な者や深く思考する者、そして広く感じる者や、心や生をまっすぐに捉える者などの「声なき者の自然のあり様」を、どんどん傷つけ壊してしまっているようにも感じています。

なぜならそれらの「声を出す権利者たち」のその表現方法の殆どが「怒り」なのです。懸命なる寡黙者は反対に「憂い」の表現方法からより静観しているのかもしれませんが、怒号でしか届かない声の時代。これは現代における由々しき事態にも感じます。大袈裟に表すのならば、文明の末期症状のような気もしています。


そして昨今では、遠くの地や遠い過去や未来の出来事も、とても身近で起こる小さな出来事も、まるで同じように情報として発信され共有されます。遠い出来事にばかり目を奪われる人も居て、そんな足下でまさか自分が小さな草花を踏みつけていることにも気がつかない人も居て。

とても身近な出来事にばかり耳を過敏にして、周りも全体の声からも耳を塞いで、鳥のさえずりにまどろむ朝や宵の虫の音も、穏やかに遠く月がそこにあることさえ気がつかない人も居て。

それも全て人間なんですけどね。どちらにせよ過剰なんです。その大体が実は他人事に過剰なんだと思うんです。きっと自分をないがしろにしているから、自分以外のことにうるさくなるんじゃないかなと思うんです。

虫や動物や植物も、淡々と黙々とそのままに真っすぐ生きているだけですからね。そしてありのままに連鎖や循環として自然の役に立っている。蜂や蝶がいなければ、花も受粉出来なくて実を結ばないこともあるんですよね。そして雑草が地震や災害から守ってくれたり、虫や菌があってこそ花も咲くのが、この地球の摂理なんです。それこそ散歩中の犬のうんちもとても必要な地球の産物なのです。

そういう人間の自意識というものは、きっと自分が自然の一部だってことを忘れてしまっているんでしょうね。きっと自分以外を「自然」だと勘違いしてるから、自然を守ろうとか自然は恐いとか、天災に対して酷いとか簡単に、それこそ「不自然」なことを言えちゃうんだと思うのです。

野菜に土が付いている。お米に黒い箇所がある。土砂崩れが起きたから行政や国を告訴するだとか、近所の祭り囃子や園児の声がうるさいからとクレームをいれるだとか。きっとその神社は何百年も何千年以上も前からそこにあるのに、後から勝手に引っ越して来てウルサイだとか、大きな御神木の落ち葉が自宅の庭に落ちてきて困るだとか… 昨今の人々の感性とは、どこまで鈍く堕ちてしまったのでしょう。

地球が熱すぎる!寒すぎる!とでも、きっとそのうちクレームを言うのでしょう。日頃、そんな大気や日光にどれだけ守られていることも忘れて。とまぁ、そんな皮肉も言いたくなってしまいますが、そういう方々はきっと、自然の中で生活をしたことが無いのかもしれないですよね。戦後から考えると、もうそういう世代ですからね。


自然の中で生きていると、本当にひとつも自分の思い通りになんてならないことばかりですよ。そうしてこちらが寄り添わなければ生きて行けないんですよ。そして最低限、身につけなければならないのは、干渉しない技術です。自分も自然の一部になるんです。

そうして生きて、そしていつか、だからこそわかるんですよね。護られてるのはこっちのほうだったんだってことが。… まぁ、そういう話は少し内容が外れてしまいますから、また別の機会にしましょう。最後に。語弊があるといけないので書いておきます。


虫がこわいとか、気持ち悪いとかという印象や感情は、そのままでいいんです。このキノコ怪しいな?と思うのと同じで、それは機能ですからね。かっこいいとか面白いという気持ちと同じで「嫌い」とか「ちょっと近づきたくないな」とか感じる気持ちも、それはそれで当然であって、そういうプラスでもマイナスでも感覚は大切にして、ある意味でより育てていったほうが良いと思います。

問題は「表紙無くせ」という結果的な言動なんです。この世にあるものをあるがままに全て見せた上で、個々がそこから何を感じて、何を表現したり、何を覚えて活かしていくのか。そう思うと、虫を怖がるなら見せなければいいだけですし、見たくなくてもあるがままに見てしまうこともあるでしょうし、そうしたら本人がそこから何かを学びます。

むしろ鼻息荒くして「子供が怖がるから、あの気持ち悪い表紙を無くせ」と電話している親の姿や生きる姿勢のほうが、それこそ我が子に見せたくないと思いますけどね。私なら。

虫こわい!表紙無くせ!って言う。そんな大人である親御さん当人の顔写真や全身写真なんかをそれこそ表紙にしたならば、きっと怖がって虫も寄り付かないノートになるのではないでしょうかね。

子供の好奇心を尊重するならばと思い今日は「昆虫綺譚」というタイトルを付けましたが、まさに「昆虫忌憚」とも言えるような、嘆かわしくもまた、同じ人間としてとても残念なお話でした。

20140426 19:56(20180825再編)




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