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今日は雨。

久しぶりに訪れた街は、雨で私を迎えてくれた。

足止めをくらうような土砂降りでもなく、ただただ傘もいらない程度の小雨が延々と降り続く。少しなら傘は確かに必要はないが、少量の雨も一日中落ちてくるのなら大量の水を浴びることになるので、やや大袈裟に思えても、些か手が塞がり、そんな動作が面倒くさく感じたとはしても、やはり傘は必要だ。

雲に覆われた街を包むように舞う微細な水滴は、空中に溶け入るようにまるで全ての物体に溶け込んで、時間を濡らすかのような丸みを帯びた一日を街にギフトする。

雨を忌む者も街には多いが、そのような者達はきっとなにかに鋭敏にならなければ生きてはいけないと思い込まされているかのように、いつもどこかで尖り、なにかを削いで、自らを欠片のようにまるで不足したように生きているのだと思う。

傷口なら沁みて憂うのも然り、だが、街の者は皆まるで傷つくことを避けるために住み着いた孤の集まりのように感じることが私にはある。

そんな私は、雨は嫌いではない。時にとても許されるような感覚をくれるからだ。今日の雨も、私を迎えてくれたのかとまるでそう思うように。


雨に潤む街。


この地域に数年前まで私は、数十年という若い時間を生きていた。古巣の近くに宿を取り、こうしてなんの目的も無くただ歩いていると、まるでそのまま元の自宅へと自然に歩み、ポケットを探り鍵を取り出しドアを開けて、まるでそのまま生活が出来そうな気になる。

それをまた、まったく不思議な感覚にすら思えないほどに、特になにも感じない自分がいる。まだ離れて間もないというわけでもないというのに、なぜだか、ただ歩いている自分に対して、懐かしさも感動も感心すら沸き起こらずにただ歩いて、あの頃のようにラーメンか牛丼か、コンビニかスーパー行くかと、ただ目的も無く歩いている。

それと同じくまた、この街にも特別な思いを感じない自分がいる。新鮮さも無論なければ、久しぶりに訪れたのだから、懐かしさに好奇心が疼き多少感傷的にでも、思い出の場所を巡って訪ねてみてもよいだろうにと思うのだが、まるで昨日のことのようにどこも日常のようになんでもなく通り過ぎて行く。

ましてや都会とは常に刷新されるように店舗なども、いつも当たり前のように移り変わるものだから、景色が変わっていても、そんなことは日常であって、既に何十年も同じ場所を工事しているのではなかろうかと思う場所も都市部にはよくあることで、変化すらもなにも心は動かなくなっている。

そうこうして明日の打合せに必要な買い物を済ませ、いつもの店で食事をとり、いつものコンビニでいつものコーヒーを買い、宿に戻り、傘を畳み、ただ見知らぬ個室で楽な格好をして、ただ眠気と戯れる。


この自分。

これをもう一度だけでも味わってみたかった。


この街を出てからはきっと余裕もあるが、やることはいっぱいにあるような、毎日を確実に生きる自分になっていった自分を自覚している。

そう、まるで毎日が晴れの日のようだ。


あの頃、都会に生きる私は、思い出せない程に用事や出来事や友人や恋人や仕事や、きっとどこかで夢も憧れも理想や不満も、たくさんの浮ついたあれこれや、多くの幼き迷い事や独りよがりな悩み事をいっぱいに抱えて、隙間無く時間を埋めるように、たぶんただ流されていた。

未来のことをまるでわかったかのように過ごしては、本当の今をただ宛ても無く歩いていたに違いない。


「無理してたな」


あの頃と同じように、カウンターで牛丼に卵をかけて、紅生姜をいっぱいに載せて食べながら、次々来店してくるスーツ姿のサラリーマンや、意味も無くやたら楽しそうに話すカップルや、ギターを背負った青年や、ただ静かにみそ汁を啜る老人や、大学生なのかフリーターなのかはわからないがスマホを見ながらダラダラと食べる少年や、ほとんどが一人客のその店内の風景をただ視野に映しながら、ふと「無理してたな」そう頭の中で呟いた自分がいた。

よく、戻れるなら何歳に戻りたいか、などという他愛も無い話題があるが、思えば二度はちょっと繰り返したくはない途方も無い時間に思う。

それほどに毎日が多くのことで溢れていたあの頃、いまにして思えば、途方も無く時間を費やしたが、実に、まるで、もしかすると自分は暇だったのではないだろうか。

なぜか少し、そう思えた。


今日が晴れていたなら、そんなふうには思えることはなかったかもしれない。

そうも思えた。


この街を出て、現在住んでいる土地にはまだ全く慣れずにいる自分がいるのだが、思うことがひとつある。どこで生きるかは全くもって重要ではないということ。ただやはり人も土地にも、必ずご縁というものはある。

しかし重要なのは、どこにいても自分が生きているということに感じる。

だから思う。きっと私は「ホーム」を失くしたのだと。そう、たぶん私はずっとこの街に拘っていた。こうして歩いて、いかにも自然に在れるのは、この街がきっと、私のような、謂わば、隠れホームレスの集まりなのではないだろうかとも思えた。

昨今では「外こもり」という言葉があるのを知っているが、特に海外の街に住みたがる方々は、「住む」ということが目的のように、人生計画をたてているように見えるのだが、そこで、いかに生きるのだろうか。そんな思案は大きなお世話だとは思うけれど。


無理していたんだな。

記憶の中に、理由をいちいち探しはしないが、ただ本当に心にそう思う。


この街では、きっと、傘が必要なのだろう。凍えてしまうまでにあまりに濡れてしまうことも防ぐことができるし、眩し過ぎるほどのなにかを程よく見えなくもしてくれる。隠しきれるわけではないところがちょうどよくも感じるけれど、あまりに振り回しすぎると尖った先でなにかを傷つけることもある。

だけれど、傘なら、差し出すことも、共に寄り添って守ることもできる。程よい距離が保たれる街。この街が私は好きだった。それはいまでも、好きなままでいる。


明日からは、言い表すならば、この街で長く生きてきて、突然出て行ったあの頃の自分が残してしまった後処理のようなことをする日なのだと思っている私が実はいる。

しかし、だからといって、またどうせこの街には何度も訪れることもわかっている。ここもどこでも私は生きているのだから。ここもきっといつまで経ってもどこかで馴染んでしまったままのホームなのだろう。

雨が滲むように肌が慣れているような感覚。

もう拘りなんか捨てて、生きる場所がホームで充分だ。


なにも予定の無い雨の日。

かつて先人達がそれを青春と呼んだのであろう、忙しない程の途方も無くながい暇な、たった一日。

私にとって、この街はたぶんそうだったのだろう。

と、そう、いまは思う。


今日だけは、なにも目的の無い自分を、自分に許した一日。


雨の日。


おやすみなさい。

ありがとう

20171016 23:59





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