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数日後には散る薔薇と
少し静かに過ごしたくて。年を跨いで、詩を書いていた。
昨年秋に発行した「アンリエット」では、一筆の線をなぞるように吐く息を続けた作品もあったが、偶然の雨粒の点から点へと色を重ねるように言葉を選んだ詩篇もあった。一語を空気のなかにどう置くか、をより繊細に考えたかった。
今回は、それとはまた違う書き方をしようと思った。少しドラマを含みながら流れ、交差する川のようなものを。発音のきれいな、ある都市の名前を起点にして、旅をするように書いてみようかな……と思いついた。一語から広がる旅をしてみようかなと。
旅の詩といえば、表面的には、第三詩集の『あのとき冬の子どもたち』には、パリやヨーロッパのどこかを思わせる街や、どこにもない場所を語り手が移動している作品が含まれている。
詩はいまでも、ときどき、語り手=作者、書かれた内容=実際の経験、と読まれてしまうこともある(どう読んでも読む人の自由だけれども……)。わたしの作品の場合も、現実の出来事や風景と重ねて読まれることも多い。
しかしわたしは、実際に経験した感情や感覚を言葉の裏地として使用したり、それらのエッセンスをちりばめることはあっても、実際の経験や思い出をそのまま書いたことはない。
経験というならば、ただ言葉の経験を書いているつもりだ。
『あのとき冬の子どもたち』のときにも、それを個人的な体験の記録と読まれたことも何度かあったが、当時のわたしがおそらくその詩集に無意識に求めていたものについて、確かに触れていた書評もあった。
たとえば、詩のなかの「時間の流れや奥行き」、「出来事のうつろい」がまとう「不可視の静物のようなひんやりした実在感」、一冊を通した「詩篇の響きあい」などに。
そこにはこうも書かれていた。「ドラマすら詩語として、詩行として扱えるまでの、余白の、沈黙の深さを思う」と。
作者自身の、ではなく、言葉自体の姿や内包する記憶や行く先を眺め、ともに流れる。そう読まれ、読むほうが、わたしは、詩のなかで息を吸えるし、楽しい。
そして、わたし個人の実体験の告白で終わるのではなく、読む人も一緒に少し遠くまで行ける。そんな小さな旅の舟を、また言葉で編んでみたい。
今日、賑わい始めた道を避けて選んだ路地で。まだ枯れていない白い薔薇を見つけた。ふだんはあまり通らない道だから、対面するのは最初で最後かもしれない。
数日後には散ってしまう。そんな一語を大切にしたい。
もう二度と会えないひとも
生まれてから一度もめぐり会えないひとも
同じ花の気配に変わる街まで
流れてゆくことを
旅、と呼ぶのなら
通りすがりの岸辺の
たとえば大聖堂や鳥の白さを
数えては
忘れるために
残りの時間はあればいい
『あのとき冬の子どもたち』(七月堂)