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語感を磨く砥石(安房直子「言葉と私」)
最近、安房直子の作品を読んでいる、と先日の記事にも書いた。
彼女の文章は、一見シンプルなあしらいの扉の内側に広い空間を持つ。それは、眠る前に飲む、色も香りも綺麗な果実酒のようでもあり、やはり眠る前に想像する、遠い港町の夜明けを旋回する鷗たちの影のようでもあり……。
もしくは、誰も住まない山間の家の箪笥のなかで、月に呼応して密やかに瞬く真珠の耳飾りの光沢のように、昼間の神経をなだめ、夜の広がりへと目と耳を導いてくれる。
全7巻の『安房直子コレクション』(偕成社)は、1巻ごとに共通のテーマや方向に応じて作品が選ばれ、集められているので、すでに読んだ作品も新鮮な気持ちで再読できるし、前後の作品の色と響きあう鉱石たちを眺めるような楽しさがある。
そして巻末にエッセイが収められているのも嬉しい。それらは、基本的には書くことをめぐる内容で、安房直子の創作の裏側や始まりを知ることができて興味深い。
6巻目の『世界の果ての国へ』には、日常から地続きの幻想の先へと登場人物たちが招かれる物語が並んでいるのだが、話の展開だけでなく、一語一語の選び方にはっとさせられることも多い。
そこには、奇をてらったひとりよがりの組み合わせは少しもない。しかし、「この一語はこんな表情も見せることができるんだな……」という澄んだ驚きをわたしは感じる。
ありふれた品種の一輪が、意外な色と朝つゆの花びらを見せてくれたときのように。
たとえば「奥さまの耳飾り」。この物語では、主人公の「小夜(さよ)」が働く「おやしき」の「奥さま」が、大切な真珠の耳飾りの片方をなくしてしまう。なげき悲しむ奥さまのために、小夜もおやしきのみんなと一緒にそれを探そうとする。
捜索の前に残った方の耳飾りを見せてもらうと、そこには「びっくりするほど大きな真珠が、まるで朝つゆの玉のように、とろりと光って」いた。
そして小夜は、夕刻に奥さまの頭痛の薬を買いに行った帰りに、庭のくちなしの木の下に、思いがけなく真珠の玉を見つけ、驚く。
「うすぐらくなった庭の黒い土の上に、それはまるで、くちなしの花からこぼれたつゆのように、ほろりと落ちていたのです」。
まず最初に「朝つゆの玉のように、とろりと光る」と表されていた大きな真珠。それは、発見時には、黒い土の上に、「くちなしの花からこぼれたつゆのように」落ちていたと書かれる。「朝つゆの玉」、くちなしの強い香りのなかでこぼれた「つゆ」。そうした甘やかな色が、夕ぐれの庭の、おそらく冷えた「黒い土の上」に落ちている。
真珠とくちなしと朝つゆのぽってりとした白さと重みが、甘い香りのなかで溶け合い、ひとつの生き物の長い温みとなって、読むこちらの目と胸に沁みてくる。
冷たい「黒」を背景にしたおかげで、「白」の温度と香りもいっそう高まりながら。
とても単純で平明。逆にいえば、最低限の言葉同士の混じりけのない組み合わせで、写したい色や香りを充分に写せる指先の確かさがここにはある。
安房直子を読むと、日常の雑音や雑念が胸からすっと消え、言葉が描くものを、言葉の行く先を純粋に楽しめるのは、一語一語の組み合わせの確かさゆえ、かもしれない。
きっと幼い子が読んでもわかる平明さ。
しかし、この人にしか書けない言葉の組み合わせの繊細さと、小さな音も拾う耳のよさ、そして目指したい場所へと一心に向かう映像と連想のふくらみがある。そのおかげで、子どもも、おそらく大人も、よく知っているはずの庭の片隅で、「大きな真珠」を見つけたときのような驚きと満足感と、ときには広い解放感を得ることができるのでは……と想像する。
巻末のエッセイ「言葉と私」を読んだとき、こうした文章の魅力の秘密を少し、覗けた気がした。
わたし自身も同じように感じ、願う部分があるので、少し長いが下記に、引用する。
下手にはぐらかしたり、奇抜な方法を選ばなくても、平明な言葉でも、繊細で慎重な組み合わせしだいで、想像の世界では大きな効果をもたらすことができる。そんな尽きない文章の面白さを、安房直子の作品から感じ取れると思う。
童話だから……と読まずにいるのはもったいないのでは、とも感じる作家だ。
最近、安房直子と並行して、やはり学生の頃から好きなマルグリット・デュラスの小説をいくつか読んでいるのだが(ここからもふたたび得られるものがある気がして)。デュラスの文章にも、とくに難しい表現はない。行単位で見れば、シンプルすぎるくらいだ。
しかし、平明だけれど、平凡ではない。
平明だが、決して作品を平凡にさせない、独自の自在と、固執と呼べるほどの異様な熱と冷静がある。
安房直子「言葉と私」から。
言葉というものは、そのひとつひとつが、まるで夜光虫のような発光体で、そのまわりに色とりどりの光の輪を持っていると、そんなふうに思いはじめたとき、私のものを書くよろこびは、たちまち数倍になったのでした。
ひとつの言葉の次に、もうひとつの別の言葉を置く。すると、ふたつの光の輪が重なったところに、思いがけない虹が生まれます。そのできたての虹の美しさに息をのみ、またいそいそと次の言葉を選ぶ……。
まるで、モザイクをする人のように、日がな一日、余念なく言葉をさがしつづけ、ならべつづけ、自分のかけた虹に、滑稽にも陶酔して過ごす時間は、生き甲斐そのものです。
そうすることで、頭の中の漠然としたイメージを、はっきりと目に見えるように、音に聞こえるように、手にとれるようにと具象化してゆく仕事の、なんというすばらしさでしょうか。
いくつもの言葉を、舌の上にころがしては吟味して、それ以外には決して考えられないたったひとつの言葉を選ぶことを学んだのは、学生時代の短歌研究会でした。三十一文字の中の、たったひとつの言葉が入れかわるだけで、一首の色あいも響きも変わってしまうことを知って驚いたことがありました。
(…)
「青」と「赤」と「白」とでは、その視覚がちがうだけではなくて、その中にこめられたさまざまなイメージがちがいます。
「青」の中には、海や湖や空があり、幻と悲しみがあり、シャガールの絵があり、遠いパイプオルガンの音色があります。
(…)
こういった、言葉に対する感覚は、磨いてゆくことで、少しずつ変わってゆくものではないでしょうか。
安房直子が学生時代に短歌研究会に属し、そこで「たったひとつの言葉を選ぶこと」を学んだ、という事実は興味深い。
エッセイのなかで、彼女は続けてこう語る。他の人のさまざまな作品を読むことで自分の「語感」も磨かれる、と。本は「語感を磨いてくれる砥石」なのだと。
わたし自身も、自分の書き方を大切にしつつ、無限にあるさまざまな「砥石」に少しでも触れ、手元の一語一語をまた違う輝きに仕上げられたら……。年の終わりに、新しい冬をふたたび迎えるように、そう思う。