[詩] あかつきやみ
黴臭く重い半纏にくるまれてはいるものの、北風が木戸をゆらす明けがたには頰の冷たさにふと目覚めることがあった。すると、二階のすみのほうから咳が聞こえてくる。それはいつもすぐには止まらず、ときおり風のするどい悲鳴にもかさなり、ぼくは怖くなって泣きだしてしまう。泣き声が高まれば誰かがとんとんと階段をかけあがる音がし、二階はしずかになる。
入ることを禁じられた奥の部屋にもう長いこと臥せっているのが母というものだと知ったのは、ぼくがようやく、しゅ、べに、あか、ひ、だいだい、き、しろ……などのいくつかのことばを話せるようになったころだった。
そばに寄るとうつる病のために、その人とまだ赤ん坊だったぼくは離され、ぼくが歩けるようになると部屋の奥へと進まないように祖母がつねに見はっていた。
祖母におぶわれ、障子の隙間からその人をなんどか見たことがある。わずかにうごいた障子から漏れるひかりに気づき、横になった人はからだを陽のほうへと向ける。ひらききるまえに朽ちかけた野水仙の白に似た顔はいつもかすかにほほえんだまま濡れていた。
目があうと、その人は蒲団から細い腕をだし、ばいばい、と声にださずにささやいた。でも息はぼくの肌にふれるまえに溶けてしまう。しゅ、べに、あか、ひ、だいだい、き、しろ……のさびしいひかりのなかで。
うつろう季節を、人の姿でいることの短さを、障子にうつる花や雪の影のみから知る人の目は、ぼくが集めたどんな硝子玉よりも透きとおり、ぼくにはまだ渡ることはできない岸辺の火がその奥で震えていた。
小雨に濡れたまつげのあわい影のあいだにうかぶ、あれは、螢、と呼ばれるものだったのだろうか。
まだ若いころのあなたがわたしにこの話をしてくれたのはいちどきりだった。さるすべりの蔭でともした迎え盆の火を仏間のろうそくにうつすとほのかに水仙のひらく匂いがした。
その人の髪に、頰に、はじめてふれるように、あなたはちいさな炎を両手でつつんだ。
火をつつむことは自身の内側の真綿につつまれることだろうか。
おそらく幼いころからいちども覚めることはなかった孤立した冬の神経のふかい眠りに、あなたの岸はつつまれていた。
つねにうす青い暁闇に浸された、木々もまばらな水辺をくりかえし訪れる人はわたし以外になく、あなた自身の影すらもそこにはすでにいなかった。季節はずれの螢がその水のそばに現れたことはあったのだろうか。
あなたの青白いまぶたのうえには、障子のむこうの木々の茂りが、だれからも忘れられた遠い夜火事のようにうつっていた。それからしばらくしてわたしたちは別れた。
わたしは人づてに聞いた。数十年たったいまもあなたはひとりでいるのだと。すでに散ってしまった水仙の芳香にふかく抱かれて眠りつづけているのだと。
もっともふかく目をとじるとき
家も木も焼けた空き地に
行きつくのであれば
だれからも遠ざかり
身 ひとつになった人は
そこから何を見るのでしょうか
息の凍る明けがたに
町のあかりも届かない
遠い空き地で ひとり
ほころびた着物を燃やす あなたを思いました
肌に長くふれた形見をすべて燃やせば
死んでもなおこの身から離れない人が ようやく
花や雪のきれいな影になるのだと
けれど 火の匂いは
ゆめのなかで いちどだけ両手でつつんだ
水辺の螢のまぼろしのように
髪に 頰に
いつまでも寄りそうから
しだいに近づいてくる彼岸から
あの人は
なんども なんども
あなたを ふりかえるでしょう
わたしが この身ふかくに
あなたの横顔の火を
いまも沈めているように
北風の音に目覚めることなく
はじめてひとりで眠れた
幼いあなたの屋根のうえを
冬のオリオンたちが渡っていった夜明けに
たったひとりで息をひきとった人の目を
あなたと
わたしが
こうして離れたままで
いつまでも
同時に
見つめかえせるように
※初出:「現代詩手帖」2023年1月号。
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