詩の日誌「抽斗の貝殻のように」6
「わたしと あそんで」
たとえば、「この一週間がどうか無事に過ぎますように……」と、その到来を待ちのぞんだ金曜日に。
一日の仕事がようやく片付き、真夜中の椅子にほっとして座る。淹れたてのコーヒーの湯気を吸い込む。……何か本でも読もうか。でも刺激的で、複雑な文章はいまは読みたくない。
そんな深夜にほんの少し、とっておきのチョコレートをかじるようにひらくのなら……。
マリー・ホール・エッツの『わたしと あそんで』(よだ・じゅんいち訳 福音館書店)を。
お話はこう始まる。
ひとりの女の子が、ある晴れた日に「はらっぱ」に遊びにゆく。
そこで、ばったやかえる、りすにかけす、うさぎにへびなど、いろんなどうぶつたちにつぎつぎと出会う。でも、彼女が「わたしと あそんで」と近づくと、みんなさっと逃げてしまう。
「だあれも だあれも、あそんでくれない」。
しかたなく、女の子はひとり池のそばにこしかけて、水面を見つめはじめる。音もたてずに、しずかに。
すると、隠れていたはずのどうぶつたちがいっぴき、またいっぴきと姿を現し、いつのまにか、女の子のすぐそばまで近づいてくる。
それでも動かずに黙っていると、「しかの あかちゃんは もっと ちかよってきて、わたしの ほっぺたを なめ」てくれる。
「ああ わたしは いま、とっても うれしいの。とびきり うれしいの」と、女の子が素直な気持ちをまっすぐに表しても、もうだれも逃げないくらいに、お互いに安心して。
何か派手な事件が起こるわけではなく、ゆっくりと、だれかとだれかの距離が近づいてゆく。
早春の氷がゆるむような接近の仕方も。風にのる綿毛の軽さで、胸に差し込むひかりの変化も。少しずつ冷めてゆくコーヒーになじむ速度で、心地よい。
こんなふうにわたしもだれかと出会ってきた気がする。
学校や職場といったさまざまな公的な場所で生きようとするとき、わたしはたいてい、課題や目標や人間関係など、何かに対して無意識に緊張し、てのひらを軽く、ときに強く閉じていたと思う。
けれど、両手を日の差すほうへと、高い空のほうへとひらいたままで、一緒に過ごせる人もいた。どの場所でも、数十人、数百人のなかのたった一人に、不思議なことに、出会ってきた。
逆に言えば、たった一人、そんな人がいれば充分だった。
とくに集団のなかで目立とうとしているわけでもない。でもわたしには、他の人とは違う空気をまとうように見えた人。わたしと同じようにひとりでいるのがほんとうは好きな人。
そして、これから親しくなるのだろうな……という直感を隠さずに、壊さずにお互いに近づける人。
そんな人たちの前で、わたしは自然と笑顔になった。いつのまにか廊下の同じ窓から空を眺めたり、好きな本や映画や音楽を教えあったり、帰り道に待ち合わせて話すようになった。
幼いころから歩く目印にしている冬の星座のひかりや、ふれたとたんに溶けてしまうはつゆきの熱さや、勉強机の抽斗の奥の貝殻の音。
わたしがこれまでにてのひらに包んできた、取るに足らないけれど捨てられないものを見せるように、その人たちには話したいと思えたし、話さなくてもよかった。
ただ一緒にいることが、毎年ひらいてくれる庭の小さな花々を思うときのように、素直に嬉しかった。
自分に合うものは出会いの瞬間から無理なく近づき、そうでないものははじめの些細な違和感がじつは消えないまま、いつのまにか離れてゆく。
そういうことが、くり返される経験としてわかってきたからか、この絵本の接近のように、お互いのまとう空気に安心して、という近づき方がしっくりくる。
小さな子が友だちになりたい相手に向って「わたしと あそんで」とまっすぐに願うときの、複雑な感情から遠く逃れた、からだの混じりけのないやわらかさ。
そうしたやわらかさを拒みあうことなく、それぞれのとっておきのチョコレートについて話しながら、コーヒーが冷めてもまだ一緒にいたいと思える人。
そんな親しいだれかに似た、深夜の一冊を眺めはじめる。
ふだんはぎゅっと閉じていたてのひらを、陽のあたるほうへとはじめてひらくように。
詩の日誌「抽斗の貝殻のように」7
「こもる。アンモナイトから、たまゆらへ」