あなたという月の光のために(吉田健一「大阪の夜」)
細かく区切られた時間の抽斗に「やるべきこと」のひとまずの完成形を入れておく。次から次へと進まねばならない道のりの単調さにときどき疲れ、ついぼおっとしているうちに、まだ何も入っていない抽斗があることや中身の不具合を人から指摘されることもある。
一時間ごとの、ときには数分ごとの仕切りから仕切りへと渡るように、たいていの一日は淡々と、生真面目に過ぎてゆく。
駅からの帰り道。重い鞄を肩にかけなおし、そのしぐさの延長でなにげなく空を仰ぐ。雲のない夜空に月がもう昇っている。
歩行がとまり、思うよりも澄んだ明かりをしばらく見上げる。ああ……このままずっと見ていたい。
小さな頃からそうだった。あ、今日は三日月。ああ、もう満月。通学の道でも、庭の片隅でも、ついぼおっと立ち止まってしまう。
するとかならず周囲の誰かに「なにしているの? はやく歩きなさい」「風邪をひくから、家に入りなさい」などとせかされ、短い夢からすぐに覚めた。
できるのなら、このままずっと、月あかりだけを見ていたい。しかしそれは細切れになった一日のなかでは、なかなか実現しづらいこと。それでも文章のなかでなら……といつしか、夢を抱くようになった。
たとえ一分、という束の間の持続でも。それは分断された虚しいひとコマではなく、わたしがこの世からいなくなっても変わらずに滔々と流れる時間へと合流する一枚の、艶やかな青葉なのかもしれない。
そう何度でも思わせてくれるのが、吉田健一の「時間」をめぐる数々の文章だと思う。
酒豪でもある著者の次の文章を初めて目にしたとき、時間の区切りに囚われない身とこころを文章の内側に作れることを知り、胸が明るんだ。
いますぐに何かを成さなければ、やらなければ、自分には価値がない。自分のことばにも、作るものにも価値がない。でもそれはほんとうのこと、だろうか。
「夜になったり、朝になったり、忙しいもんだね、」と感じるときの、時間のおおらかな留まり。人がただ、ここにいるだけですでに喜ばしい。この確かさのまえでは、そんな焦りこそが淡い幻想なのだとも思えてくる。
他にもたとえば、パリ、ロンドン、ニューヨーク、大阪、神戸、京都、金沢などへの旅の時間をめぐる考察と感受の穏やかな協奏とも呼べる短篇小説『旅の時間』。
ここには、全篇を通して、ただそこに人が「個体」の生き物として時間とともに「在る」ことの、決して特別ではない充実が描かれている。
ともすれば、何もせずにここにあることは退屈で無価値なことだと見なされがちだ。けれど、この連作集のなかでは、主人公とその周辺の人や物ごとは、何もすることがない=退屈という通念から軽やかに逃れている。
言い換えれば、退屈であることの魅惑にすら触れている。
一瞬一瞬の時の移ろいの甘美さと充溢に気づける繊細さと、そうした感じ方を通念よりも優先させるだけの余裕としなやかさがこれらの文章にはあるとも言える。
ひとりで、あるいは誰かとともに、月を見上げる。ただそれだけのこと。
「大阪の夜」という一篇では、そんな時間の尽きない豊かさが、この上ない美しさで現れている。
主人公の「山田」は、三味線を聞かせてくれる定宿の「おかみさん」とともに飲むうちに、「自動車でどこかに行って見ましょうか」と提案され、ある屋敷の小さな部屋を訪れる。
そして月の光だけがひたひたと漲る庭を眺め、盃でその光を受けながら、ふたりでまた飲み始める。息を潜めるように時間が静まってゆく、その場面。
それ自体が読む人のこころを刻一刻と満たす月光であるような文章を目にするたびに、時を止めて月を見ることの意味が、頭ではなく、喉を通り、胸元へとゆっくり、注ぎ込む。
自分と同じように月を見上げる人の、その意識で一切を蔽おうとするしぐさを感じ、それを受け留めあうのは、その人に「触れる」のに近いという。
月の光のなかで、決して触れることなく、触れあう二つの時間の漂泊された美しさ。
月をただ見上げていたい……。わたしがそう願ったのは、月の光ですべてが蔽われる、そんな時間の丸みを味わってみたかったからかもしれない。
そして、いまどこかで、自分と同じように月を見上げるために、しばらく立ち止まる人に、こう告げたかったからかもしれない。
決して触れることはない、もっとも近い体温を感じながら。
「いま、ここにあなたがいてくれて、うれしい」と。
→メモ:距離という涼しい波間(鏑木清方「胡瓜」)