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夏。さまざまな白とともに。

 夏休みの日記のようなメモとして。

 秋刊行の詩誌に載せる詩を書き終えてから、それらの作品と、これから書いてみたいことの間にあるものが何なのか、いろんな小説や詩を読みながら少し考えていた。

 たとえば、白と呼ばれる色彩があるとして。
 わたしがよく眺めている、鏑木清方の「朝涼」という絵には、ひらき切るまえの蓮の花の近くに、編んだ長い髪に左右の手で触れながら(何かをひたすら思うように)、おそらくゆっくりと歩く少女がいて。
 まっすぐに前を向く横顔の、唇と耳のほのかな明るみに照らされた白と、花模様の薄い紅色を含んだ帯の白。手首とゆび先の純白、草の涼しい翳りをやや落とした草履とつま先の白。そしてまだいたいけな蓮の白と、遠くの空のうつろう白が目に入る。
 同じ白とはいえ、それらの薄さ、透明さ、澄み方、やわらかさ、儚さ、涼気は異なる。
 その微細な色の差は、筆先の力の加減というよりは、息や思いの吹きこみ方の強弱や、夢と現を溶け合わせる眼差しの鋭さ、繊細さゆえなのかな、とも感じる。

 以前、わたしの詩に対して、「もう少し、人生の暗部や闇や汚い部分を、書いたほうがいいのでは……?」と評した人がいた。表面的にはそうかもしれない。

 けれどわたしは、白と黒というわかりやすいコントラストよりも、白というひと色のなかにある微かな差や、色と色のあわいにあるものを、少しでも言葉にできたらと、少し前から考えている。

 暮らしていれば、どんな一日にも明暗はある。とはいえ、言葉のうえにもわかりやすい白と黒を、と求めることは、自分には少し、乱暴で雑な筆遣いに感じられる。
 たとえば、虹を、花を、雪を、何色に見るのか。それは、それぞれの人の長年の習慣や好みや経験を通して生まれてくる自由だと思うし、言葉の内に一見陰鬱で凄惨な出来事や記憶を潜ませ、それらを詩の深みと思わせるのも自由だと思う。

 言葉と言葉の接触部分の濃淡や、イメージや響きの強弱を観察しつつ、一つの冷えた部屋や階段、踊り場、中庭のような、息継ぎの場所を詩のなかに作りたいなと、今はぼんやりと思っている。
 実際に部屋について書くのではなく、詩が一つの白い部屋になるような言葉の組み合わせを、と。

 もしかしたら、白い部屋は、言葉と言葉の間にある幾重もの、見えないかなしみやさびしさのようなものへとつながる場所なのかもしれない。

 言葉と言葉の、色と色の接触点の見事さを堪能しつつ、このところずっと泉鏡花を読んでいた。
 鏡花は、高校時代から好きな人。当時、白秋と鏡花と川端康成が自分の文章の憧れだった(白秋は詩ではなく、とくに『桐の花』や『思ひ出』のなかの散文部分)。

 好きな箇所を一つだけ引用して、これから東京を離れる列車のなかで、夏の水や山の色を見ながらまた、自分の書きたいものについて考えたいと思う。
(ほんとうは、好きな一篇「艶書」の洋傘の翳りや花籠から花の落ちる箇所を引用したかったのだけれど、少し時間がなく……)

 雨が二階家(にかいや)の方からかかって来た。音ばかりして草も濡らさず、裾があって、路を通うようである。美人(たおやめ)の霊が誘われたろう。雲の黒髪、桃色衣(ぎぬ)、菜種の上を蝶を連れて、庭に来て、陽炎と並んで立って、しめやかに窓を覗いた。

泉鏡花「春昼」より