詩の日誌「抽斗の貝殻のように」7
「こもる。アンモナイトから、たまゆらへ」
風をはらんだようにふくらんだ封筒。飛ばされない重みもある。何が入っているのだろう。
送り主は詩を書く人。封筒が届く少し前に、わたしはその人の詩集についての記事を書いていた。この郵便はそのことへの応答に違いない。
その人とはとくべつ親しい付き合いはなかったが、ある会合の帰りに一度だけ、ひどく混んだ中央線で一緒に帰ったことがある。
とくに賑やかな集団に囲まれたせいか、寡黙な人の声はほとんど聞き取れず、唇が動くのを無声映画を追うように見ていた。
声が聞こえないくらいに騒がしいはずの車輌。でも彼の詩のように、静か、と感じた。
封筒の中身は、アンモナイトの化石だった。送り主のコレクションから選んでくれたのかもしれない。
直径五センチの円形のどこにも欠けた部分はなく、てのひらにのせると、何十年も人の手になでられた石の階段の手すりのように肌になじむ。
はじめてふれたのに懐かしいような、好意を持って近づく人を拒まないなめらかさがあった。石の奥に静かな時間が何層も折りたたまれているせいだろうか。
机の上に置いたときには気がつかなかったが、てのひらで包むと石のおもての色が変わる。電灯のあたり具合によって、アンモナイトの殻の表層に残る赤い色がちらちらと現れるからだ。それは波とともにゆれるいくつもの真紅の炎に見えた。
青い海で暮らしたはずの、言葉を持たない生き物の内側に、紅玉に似たあざやかな火が宿り、尽きない歌のようにゆらめいているなんて……。わたしの命よりもきっと長く、これからも。
それは外界に出よう出ようとする、鋭い輝きではなかった。自分自身の内側の造形の美しさや遠い記憶の海をそっと照らすための火であり、この小さな焚き火を愛しげに覗く人の目をともに和らげる、慎ましくて清潔な瞬きだった。季節ごとにめぐる星々のように、自然界に属する火だからだろうか。
自らを目立たせ、大勢の人を一度に引きつけようとして、外へ外へとひかりを放つ電飾は、たいていは単調で空々しく、長く眺めれば目も心も疲弊する。そんな派手な店の前は素通りしてしまうことが多い。
わたしは、水底へと螺旋を描いて潜ってゆくような、アンモナイトの火が好きだ。
手にのせて眺めていると、この愛らしい化石に形が似ている、やはり内側にこもる、もう一つのひかりを思い出す。それは、曲玉(まがたま)のひかり。
川端康成の短編小説「たまゆら」の一節だ。
語り手の「私」は、若くして亡くなった知り合いの女性の形見として、曲玉をもらう。この曲玉の二つ三つに糸を通して、静かにゆらすと、玉がふれあい、小鳥がさえずるような音がする。亡くなった人はその音を「たまゆら」と呼んでいた。
そんな白昼夢のような思い出とともに、車で「赤坂見附」から、五月の公園へと過ぎるとき。若葉と八重桜の重なる色のなかを抜けながら、「私」は、「曲玉」をかざす。
こんなふうに、「外に逃げないで内にこもる」色そのものが透きとおってゆくこと。
たとえば胸の底にある、かなしみや怒り、あるいはもう会えない人への狂おしいほどの慕わしさ。それらをいま、外へ外へと出してしまえば、人に軽く告げてしまえば、ありふれたおしゃべりの一部になってしまうだろう。
けれど、「外に逃げないで内にこもる」、内にこめることで、思いは自らの思いによって濾過され、透きとおってゆくはずだ。
詩もそうかもしれない。下手に紛らすものを持たず、余計な音を拾わず、ひと針ひと針、ひと色ひと色の内側の純粋さにこもることで、言葉はしだいに透明になってゆく。
一億数千万年前の生き物の弱いひかりに目を凝らし、今世ではもう会えない人の聞いた「たまゆら」に耳を澄ます。そうした人たちの、新緑のようにやわらかいてのひらや瞼が、いつかこの色にふれてくれますように。
透明な言葉の底にはきっと、そんな願いの火が、消えずにゆらめきつづけている。
詩の日誌「抽斗の貝殻のように」8
「ゆきの夜。はなの家」