
初めて、読まれた時のように
過ぎた季節を思いながら、寒さへと向かう車内でこれを書いている。
(昨日、noteに載せた詩もさまざまな方に、そしていつもここを訪れてくださる方にもお読みいただき、感謝しています)
個人誌や詩誌の販売時にも、毎回ご購入くださる方がいる。なかには、「今回も楽しみにしていました」というメッセージをくださる方も。
いつもわたしの詩をお読みくださる方こそ、大切にしていきたい、と改めて思う。
続けてお読みいただけること。それに慣れていないかな、と時々、振り返る。
たとえば、家族や親しい友人は変わらずにある空気のようなものとしてとらえがちかもしれない。
初めて出会い、話したときの昂揚や喜び、会話を重ねてきた日々の充実を忘れ、彼らの存在の貴重さを、軽んじてはいないかな……と。
そんなふうに、いつもお読みいただけることの貴重さを忘れていないかな……と。
一時的な興味で近づき、またすぐに離れてゆく人なら、たくさんいる。
それに呼応するように、新しい人にどんどん読まれたい、これまで自分を認めてこなかった人にも認めてほしいと願う。書く人であれば、そう思うことも自然なことかもしれない。
しかしそう求めれば求めるほどに欠乏感は拡大し、漠然とした欲望はつねに満たされないまま、書き手としての時間も尽きてしまう気がする。
たくさんの新しい人たちの多彩な意見は、刺激的かもしれない。けれど、こちらの不調時には距離を保ち、見守り、また近づく。そんな親しい友人のようなひとりの読み手だからこそ、気づいてくれることがあるのかもしれない。
そして当たり前なことほど、当たり前ではなく。親しい人も、わたしも、永遠ではない。いつもそこにいる、会える、話せる、と思っていた相手が急にいなくなることもある。
(年を重ねた今では、なおのこと)
次の土曜日に、松下育男さんの詩の教室にお邪魔する。わたしの詩をご紹介くださるからだ。
松下さんとは、最初は読み手として、ここ数年は書き手同士として、たまにやりとりさせていただいている。
松下さんはいつも、わたしの作品へご感想をくださる。
(かつ、人付き合いが嫌いな…わたしに気さくにご連絡をくださる。直属でないからかえって話しやすい、隣の部署の部長のような方…笑)
読まれること。それを当たり前、と思ってしまえば、慣れてしまえば、自分の読むことも、書くことも停滞すると思う。
松下さんは、わたしの過去の作品から詩を10篇選び、一篇ずつのご批評を後日、記事にもしてくださるらしい。
第一詩集を初めてお読みいただいたときの新鮮な気持ちで、「読まれる」という貴重な体験を受け取りたいと思う。
どんな関係においても。人も、言葉も、永遠などないのだから。