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[詩] 白い紙

わたしが生まれるまえ ながいゆきみちで 暖を取るためにまだ若い母が燃やした手紙を けさも 夢のなかで読もうとしていた 真白い紙のうえの 凍ったゆびの跡にいくら目を凝らしても 幸うすい紙と紙のあいだに落ちたゆきの数文字は読めない わたしよりさきに生まれなかったひとが 空を渡ったのは数十年まえ いえ、きのう きょう それともあした はつあき はつしも はつゆき は いつのこと ゆびを折って数えるのがいちばんたしかなはずなのに 夢のなかでは ゆびのありかがわからず よわい紙の肌と肌のあわいの冬に記された 姉さん、のゆきの名は わたしが目覚めるまえに 空を渡る白い鳥となる
  
迷いこんだと一生わからずに 深みへ降り 曲がるはずのない角で ひとり ふたり 見失い 振りかえっても 鳥の影はなく 見渡す道も ただの白い紙 きのう きょう あした 病室で食べたものや 降りた駅の名が 思いだせなくなる 歩くほどに すべてがうすれてゆくのなら なぜ わたしは はじめから 星々のひとつにならずに ひとのかたちを持とうとしたのだろう 幼い眠りのなかで髪や頰になんどもふれてくれたゆびの湿りも もうすぐ真白い砂となるのなら なぜ ひとは じぶんが死んでもなお ひとを夢に見るのだろう

朽ちはじめるまえの記憶の家で あのひとが好きだと言った夜あけのほのぐらい小雨 割れやすい青いグラスと散りぎわの白百合の眩暈 朝の階段の踊り場で聞く上階のピアノ 海風をはらむレースのカーテン 眠るための絵本のなかの遠い潮騒 水平線に吸いこまれていった小舟と子どもたちの麦わら帽子 地図にはもう載らない海岸から流れついたミルク瓶のかけら 夕凪に打ち捨てられた まだちいさな魚のあたたかい血の匂い かあさん、に書けなかった無数の便箋 すぐに消えてしまうあかりだけを目印に いつか ほんとうに わたしたち 会おうね、と

夜のカーテン越しに だれかが素足で踏む枯れ葉のやさしい音 それともかすかな泣き声 空が明るむまえに 顔のみえない母に手をひかれ 知らない北の駅まで ながい坂を降りたことがある 足もとは暗く 見あげれば降りやまない白い鳥の羽根 あるいはもうすぐ消える無数の便箋 見とれるわたしの代わりにひとつきり、の帽子が 崖下の闇へと吸いこまれて 数十年まえの通夜のあと だれかが暖を取るために燃やしたゆきの手紙を 覚めない夢のなかでなんどもにぎりしめるように ふたり 降りていった

いまはどこにもない生家で 色褪せたカーテンを帆にして日暮れまで遊んだこと にぎやかな笑い声とうす青いグラスのふれあう音 ひらくまえの百合のあまい白昼夢 上階のマズルカ あのときとおなじやわらかな緑のひかりが 記憶の奥でひび割れはじめる窓ガラスからも差しこんで わずかに でもたしかに 傾きつづける柱や屋根からこぼれおちる砂 それは ゆき わたしよりさきに生まれなかった子が だれよりもながく遊ぶための

きのう きょう あした 教室で 雨やどりの公園で 共同住宅の廊下で 姿が少しずつうすくなっていった子どものわたしは夢を見る だれも知らない無人駅の海岸 遊泳禁止の朽ちたロープのむこう 迎えにくる船はなく かくれて眠るやどかりたちの あたたかな家々のほうへ しだいに聞こえるのはわたし自身が泣きだした声 いえ、波の音 これ以上そだつことはないちいさなかかとの なおらない靴擦れが ゆきの砂浜にふれているあいだだけ さくらいろに剝がれた皮ふが つたなく奏でるピアノのないピアノ 貝殻のない貝殻 星のない星

どんなことばも通じない岸に似たほんのみじかい一生のうちに だれにもふれられずに ふれさせずに じぶんで守ってきた心臓の よわいあかりだけを目印に わたしが生まれるまえに飛ばした白い紙の鳥は いつか 降りてくる 降りやむことはない無数の便箋となって もうどの子の骨も残っていない砂浜のさびしい皮ふをつつむために

だれからも わたしからも やっと 忘れられた姉さん、に似た子が ながいゆきみちからはじめて目覚める やはり真白い紙のような朝に









初出:「現代詩手帖」2024年1月号
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