降る花は降る記憶の窓から
日常でも、詩でも。たった一年という単位で、さまざまな出来事や作品の性質を区切り、過去へと送るのは少し乱暴かな……と感じる。
以前、「個人誌と詩集制作について」という記事でこう書いたことがある。
「詩集は、その「想像=夢」の一冊の先にあるはずの、次の書き方へと進むための、やわらかな「足場」」であり、個人誌は「柔軟な「足場」である詩集と詩集の間をつなぐ、「つかの間の滞在地」」だと。
言い換えれば、この一篇があるから、次へと渡れる。
わたしにとってはどの一篇も閉じられた「過去」ではなく、うすくらがりの先にも、道や水辺があることを教えるために降り、流れる花のようなもの。
今年は(も)、現代詩手帖賞の選考をしたり、いくつかの貴重な詩集について書く機会をいただけて、学ぶことも多く、ありがたい年だった。
そして何よりも嬉しかったのは、「アンリエット」という、詩集のように読み応えのある、内も外も美しい詩誌を作れたこと。これはわたしにとって豊かな「滞在地」となった。
(刊行、販売時には、多くの方にそれぞれの言葉で温かいご感想をいただき、ほんとうにありがとうございました)
「アンリエット」は、わたしひとりでは作れない。髙塚謙太郎さんという優れた詩の書き手(であり読み手)と、吉岡寿子さんという独自の繊細さとセンス(と技術)を持つデザイナーと一緒でなければ。
次号は未定だけれど、三人のタイミングが合うときに、また新しい気持ちで計画できたら……と想像している。
日常でも、詩でも。使い終わったカレンダーをすぐに丸めるように、粗く括れるものは少ないとわたしは感じる。
区切り、離れ、忘れようとしても。離れようとするからこそ、親しんだものとの隙間に降りはじめる花があり、たとえわたし自身が振りかえらなくなったとしても、花はひとりで降り続けるのかもしれない。
誰からも忘れられた花びらを集めるように、新しい足場へと辿りつくまで、来年もまた、詩を書いていきたい。
そんな「花」のことを書いた作品を、真新しい時間の始まりのために、下に置いておく。
(第四詩集を出したあとの冬。書いた連作の一部。
けれど、もう……短歌を書くことはないと思う。これもまた、わたしにとっては大切な、誰もいない踊り場に降り続ける花びら)
幾千の蠟燭で頰あたためて花から花へ歩くマリア祭
まだ眠るひとと別れて市街地へ降る花は降る記憶の窓から
「リヨン市街地」という名の、作品全体はこちらに。