車中の曲と「青いかげ」(蔵原伸二郎「めぎつね」)
今日はいつもの朝と違って、東京の西の方へと流れてゆく、少し空いた電車に乗った。車窓からは雪が降りそうな乳白色の空。わたしは移動中に曲を聴く。耳にする曲によって、空の色の甘さも冷たさも変化する。
学生の頃から眺めている中央線の車窓や駅の名。けれど選ぶ曲の旋律によって、見慣れた風景は昨日とは変わる。そのたびに胸に風が通る。
そんなふうに眺めるだけで気分が変わる詩が、自分にはいくつかある。
小さな詩。通過したあとにふと思い出す、無人駅の風のような詩。
蔵原伸二郎の「めぎつね」も、薄荷味の飴ほどの気軽さで、わたしの胸に風を通す。
読みはじめるとすぐに、頬にさっとふれる冷たい風。一瞬の冷たさに驚き、風の行く先を知ろうと、あわてて顔をあげる。すると視線の角度が変わり、車窓の外には、意外にも澄んだ空が広がっていることがわかる。線路の先には、遙かな場所があることをもう少しだけ、信じてもいいくらいの。
作者の考えをむやみに主張せずに、言葉の作用によって読む人の胸にさりげなく風を通す。そんな作品が、わたしは変わらずに好きだ。
「めぎつね」の書きだしはこう。
そしてこの「青いかげ」は「凍る村々の垣根をめぐり」「みかん色した人々の夢のまわりを廻って」、「いつの間にか//鶏小屋の前に坐っている」という。
降雪にふれ「青いかげ」となる、「狐」という命の凍るような温度。この「冷たさ」が、「みかん色した人々の夢」や「鶏小屋」といった暖色の言葉の温みに沿って和らいでくる。
短い詩はこう終わる。
夜明け前、「とき色にひかる雪あかり」。雪と空気の冷たさを際立たせるための、「とき色」というまだ淡い陽の色の鮮やかさ。
手のひらで雪を包んだあとにしだいに火照りはじめる肌の熱と血の流れをも連想させる、この慌てない温もりの推移。
そして「みごもっている」という、読む人によってはその意外な重みのある言葉に戸惑ってしまうような最終行の開き方。それまでの薄青い夢幻の光景が破れ、その破れ目に朝日がすばやく差しこんだような、ふっくらとした手触りのある温かさ。
狐の胎内のまだ見えない子を思うように、言葉のなかにまたもう一つの言葉が包まれているような暖色の余韻を、わたしは感じる。
読む人の考えや世界を変える、というほどの大げさなことではなく。暗闇で燐寸を一本さっと擦るような清々しい指さきで、言葉の表面と奥の温度を変える詩。
読む人の一瞬凍えた目のなかに澄んだ風を通し、そのあとに小さな余韻の火を灯すさりげなさで。
黒田三郎は『詩の作り方』という著書のなかで、この作品を取り上げてこう記している。
十数行の短い詩。けれど目を通すだけで、気分が変わり、いつもの景色も違って見える。
今日はあとひと駅だけでも、先に行ってみよう……と思えるような、温かな軽やかさで。
そんな、ささやかであることの尊さ、を読むたびに感じる一篇。その可憐な「青いかげ」。