脱力でニュートラルな気持ちが良き道を開く
「長所と短所」ときいて、何をイメージするだろうか?
わたしたちは育ったきた環境や経験によって、物事の見方を規定されるものである。
最近は「ほめて伸ばして育てる」とも聞くが、親世代自身がちいさいころからできないことを指摘され、自分の短所を必要以上に否定評価する癖がついていると、人をほめることも時には大きなストレスを無意識レベルで生じさせているかもしれない。
実際ほめられることに慣れていないと、いくら真剣にすごいですねと表明されても、居心地の悪さを感じたり、素直に受け取れないこともあるだろう。
一方で、「モノの見方を変える」ということを知ると、短所と思われることが実は長所である、という気づきを得ることも多い。
ある特性・傾向が、その時々の目的と状況にどれだけフィットしているか、否かという一時のトレンドみたいな側面も持つ。
発達の凸凹も、別に特定の人に限ったことではなく、わたしたちはみな凸凹だらけだ。どこに光が当たっているかだけに過ぎない。
長所も短所も凸も凹も、その特性を有効に使えればそれでいいし、使わないままであったとしても、人の尊厳は何ら損なわれるものではないのだ。
ゆえに、その人自身のあり方、ありようが、何はさておき、一番大事なことなのかもしれない。
先日東寺にあった配布物のことばが印象深かった。
だれかと自分を比較しつづける世界。
こころや志・エネルギーなど数値化できないようなことまでも勝ち負け・優劣を競おうとする世界。
そんな世界観の中で、長所・短所や強み・弱みといったものを考える時代はおわりつつある。
価値観の混在・多様性の点からも、「終わった」に至っていない人もまだ大勢いるのだと思う。
大事なポイントは
「他人の価値観も受け止めるということ」
「他人に自分の価値観を押し付けないということ」
過去の自分と今の自分の「差」に成長・長所・強みをみつけることを積み重ねればいいのだと思う。
それがひいては、「コンプレックスを克服」につながる気がする。
また、積み重ねるにあたって、「こころとからだはひとつ」という基本に沿うことが最初に大事なことが前提だ。
具体的には、心身を常に脱力状態において「無力」となり、喜怒哀楽に代表される感情も起伏があっても直ぐにセンターに戻る「ほぼ常時ニュートラル」でいることではないかと思う。
ありかた・ありよう次第でジャッジを必要としない、より生きやすい生活や社会を創っていけるのだと感じた。