継続とは「楽しいから続く」ということ
noteを再開して、6日目。
今、毎日投稿を内心の目標にはしているものの、目的は投稿することではなく、この世界を自分の周りからでも「気持ちよい」感覚で満たし、幸せとともに生きることが当たり前になってほしいという願いを表現するため。
経験、学びで得たことや気づきの積み重ねと応用適用、新たな出会いや展開が空と雲のように自由無尽に形を変え、タイミングとスピードを取り混ぜながら起きている。その断面(スナップショット)は次々に忘れてしまうのだけど、せめて思いや記憶の一端をここにおいていく。
楽しいから書く
何を書こうか(描こうか)と考えるとき、これを書きたい(描きたい)と思うとき、動機や開始当初は必ずしも単純な「楽しさ」だけではないのだけど、やった結果の脳内には脳内には収まり切れなかったり、取扱いに持て余していた感情の昇華が生まれる。
これはジャーナリング的なことやエッセイ・詩作といった文章化に限らず、絵画や工芸・音楽といった非言語のパフォーマンスでも起きている。
「楽しい」は快の感情につながり、自己認識を厳しさから解放し、自己効力感や自己承認感や自己肯定感といった「ありのままを受け取る」自分への赦しをもたらす。
「楽しいから続く」のであり、「続くから楽しい」わけではなさそうだ。
「楽しいから続く」が基本にど~んと横たわり、自分をゆるめ、リラックスの状態と集中が共存できるからこそ、「続くからうまくなる」「続くから詳しくなる」からの、「チカラ」といわれる副産物が生まれる。
「継続は力なり」という言葉でどうやら勝手にわれわれは、何かを続けるときには一生懸命に頑張って、~時には額に汗し、時には歯を食いしばり、時にはくたくたになりながら~、力を入れてやるもんだと思って、すごしてきたのではないかと、気がついた。
「継続は力なり」を唱えて頑張っていると、呪いの呪文のように苦しいだけになってしまう。
「楽しいこと」と感じることだけを続けよう。
「楽しさ」を感じられる感性の自分であろう。
「楽しさ」を大事にしよう。
4年前noteを中断したのは、ステイホームが続き「楽しさ」を感じる余裕がなくなった私がいたのだな。
きっと。