インドにて10(覚者に会う)
悟りを開いた(西洋人はエンライトした”光明を得た"と表現していた)と噂のキラン・ババに会うため、その週の土曜日、僕はリクシャーでババの家に向かった。
講和の時間(インドではダルシャンと呼んでいた)になると、西洋人やインド人が続々と集まった。ダルシャンの場所はババの自宅の庭であった。インドでは結構な成功者らしくかなり大きな家に住んでおり、庭には綺麗な芝が敷き詰められていた。
集まったのは30人ばかりであろうか。日本人は僕だけだった。
ババが座ると思しき椅子が置かれ、その左右には少し偉そうな態度の西洋人が数名座った。覚者とか、霊能者の周りには必ずこういった取り巻き連中が現れるものだ。僕は少しガッカリした。
程なくババが現れた。50代と思しき品の良い、静かな雰囲気の男性だった。クルタと呼ばれるインド人男性がよく着る民族衣装の出で立ちであった。
ババは英語で静かに講和を始めた。途中で質問を受けながら50分ほどの話をした。僕は英語は堪能ではないので2、3割程度しか理解できなかった。
インド人の聖者が言いそうな、割とよく聞く内容だったと思う。
ただ講和の間中、キラン・ババはじっと僕の方を見ているように感じた。
彼が悟っているのかどうか判断できないが、来週の土曜日にもう一度来てみようと考えた。プラティカにキラン・ババのことを話すと、彼女も興味を持ったようで、”一緒に行く"と言った。
翌週の土曜日、再びババの自宅を訪ねたが、少し様子が違った。講和を聞きに来ている人がいなかったのだ。
チャイムを押すと家人が出てきた。ダルシャンに来た旨話すと、家の中に招き入れてくれ、そのまま裏庭に面したテラスに案内された。
そこにはキラン・ババと数名の西洋人が座ってお茶をしていた。聞くと、ダルシャンはもうやらないらしい。
先週ぼくが初めていったダルシャンが、奇しくも最後であったのだ。僕が英語をよく聞き取れなかった為、勘違いしてやって来てしまったのだ。
例によってババは静かに話をした。時々質問に答えたりしながら、会話が無くなっても全く気に留めていなかった。
4、5人の人が集まって会話をする際、例えば1分全く会話が途切れたら、相当な違和感、居心地の悪さを感じるであろう。しかし、ババは会話が途切れても全く落ち着いたままで、ポーチに揺られながら、周りの人達を見るともなく見ていた。
長い沈黙の後、不意にババが僕に尋ねた。”何か質問はあるかね?”
僕は一つ聞いてみたいことがあった。それは若くして満州で死んだ僕の祖父のことであった。
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戦争中、祖父は軍医として幼い伯父と祖母を連れ満州に渡った。満州でもソ連に近いハイラルという僻地に自ら望んで赴任した。
満州に骨を埋める覚悟であったようだ。
日本にいた頃、まだ若い祖父は借金の保証人となり、苦しんだ。
これからどうやって、生きていくか?そのようなことを考えながら部屋の中を歩き回っていると、突然、体が勝手に動き出し正座の状態になり、両手を畳の上にドン!とついた。否、手をつかされた。
そして腹の底から大音声が迸り出た。
”南無阿弥陀仏! 南無阿弥陀仏!! 南無阿弥陀仏!!!”
その様な経験の後、祖父の周りには自然と相談者が増えていったそうだ。
僕の母は満州で生まれた。母が生まれて3週間後、祖父は亡くなった。
その日の朝、友人と二人で釣りに出掛けた。黒竜江かその支流の河であったと思われる。初春のまだ相当に寒い季節であった。出かける前、祖母に向かって ”行ってきます!” と敬礼して出かけた。それが最後であった。
祖父が釣り船を出したのは、”魔の淵”と呼ばれる事故が多いことで有名な場所だ。大きな川で風を遮るものはなかったであろう。またあちこちで渦を巻くような場所でもあったらしい。
祖父の乗った船は転覆し、友人と二人岸に向かって泳ぎ始めた。先に岸に着いたのは友人の方であった。友人は"早く来い"と祖父に手招きした。しかし、そこで力尽き沈んだ。
沈む前、祖父は軽く手を挙げ、挨拶したように見えたと後に友人は語った。
3日後、祖父の遺体があがった。通常水死体は見れたものではないらしい。だが祖父の遺体は綺麗なままで、自宅に安置された時、幼い伯父は祖父が眠っているものと思い、一緒に横になったそうだ。
まだ祖父は30代半ばであった。
突然の死であったにも関わらず、祖父は遺言を残していた。後に祖母からその遺言状を見せてもらった。そこには一言記されていた。
”南無阿弥陀仏” と。
その祖父について尋ねてみたかったのだ。