05 星の船
毎日同じ時間にこの木の下で逢いましょう。
私が雨でここに来られない時は貴方の家に行くわ、あそこからならこの木が見えるから。
貴方の具合が悪くて来られない時も私が貴方の家に行くわ。ノックを三回したら黙って二回返してちょうだい。
それを二人の合図にしましょう。それが続く間は、お互いがお互いを信じられる……。
カタリナの昼食はいつも昼下がりだ。
毎日丘の上にある白樺の木の下で、オットーが持ってきた飲み物やパンと自分で作ってきた総菜を一緒に食べる。それが二人の習慣だ。
「今日はミルクティーにしてきた。まだ温かいから冷めないうちに飲むといい」
「ありがとう」
毎日続くいつもの光景。今日は小春日和で放牧された羊たちも日の光を浴びながらのんびりと草を食べている。その羊たちの回りを牧羊犬がはぐれないようしっかりと見張っているのが頼もしい。
「ごめんなさい、オットー。ちょっと待ってて」
そう言うとカタリナは立ち上がって口笛を吹き、一匹の犬の名前を呼んだ。
「モーント!」
すると一匹の白い犬がカタリナの方へ駆け寄ってきた。まだ若くしっかりとした体つきのその犬は、カタリナが手で合図をするとオットーの前にちょこんと座る。
「モーント、オットーにちゃんとご挨拶してね。今日から一緒に放牧に来ることになった子なの」
モーントはオットーの顔を見て緊張するように首をかしげたが、オットーがにっこりと笑って頭を撫でると大きく尻尾を振ってじゃれついた。カタリナはそれを見て少し慌てる。
「モーントだめじゃない、オットーは帰ったらパンを焼かなきゃならないのに……ごめんなさい、エプロン汚れちゃったわね」
「ははははっ、いいよいいよ。人懐っこいのは良いことだ。ほら、モーントこっちにおいで」
立ち上がってモーントと遊ぶオットーを見て、カタリナは微笑んだ。
今ある幸せ。これはオットーのおかげだろう。オットーがいなかったら、自分は今ここにいなかったかも知れないのだから。
思い出す度に胸の奥が締め付けられるような苦しい記憶。でも一生忘れてはいけない、忘れることなど出来ない恐ろしい出来事。
羊飼いとして隣村から独り立ちしたばかりのカタリナにとってこの村の一日はあわただしく過ぎ、ゆっくりと村人と話をする暇もなかったように思う。当時は村も今ほど人が少ない訳ではなく、結構な人数の活気のある村だった。
元々あまり積極的ではないカタリナにとって、村人と交流するのは結構大変な事だった。毎朝早くに羊を放牧し夕方には羊を羊舎に連れて帰る。そんな日々の繰り返しで毎日が過ぎていく。必要最低限のことしか話さない日々に疲れ果てて、隣村に帰ってしまおうかと思ったこともしばしばだ。
だがそんな中、毎日パンを買いに行く店にいる青年と知り合った。
「その犬、触ってもいいか?」
彼の名はオットーと言った。オットーは自分とは逆で、隣村にパン作りの修行に通っているらしい。前々からカタリナが犬を連れてパンを買いに来ているのは知っていたのだが、話すタイミングを掴み損ねていたのだと彼は笑って言った。
「隣村から羊飼いとして独立したって聞いてたし、修行に行ってる所でも『カタリナは元気にしてるか』ってよく聞かれる。だから一度話してみたいと思ってたんだ。それに犬も触りたかったし」
「犬、好きなの?」
「ああ、大好きなんだ。でも家はパン屋で飼えないから人の飼ってるので我慢してる。なんて名前なんだい?」
すっかりオットーに懐いた犬を見ながら、カタリナは安心したようにふうっと息を吐いた。もう少し、自分はこの村で頑張れるかも知れない。
「シュテルンよ。額に星のような模様があるからシュテルン。この子は私がずっと育ててきたの」
オットーはそれから、パン屋の修行が休みの時に村を案内してくれるようになった。
だが、村人達を紹介してくれる中でオットーが一人だけ「あいつには関わらないように」と言った者がいた。それはよく村の中をふらふらしているみすぼらしい男で、カタリナも何度か道ですれ違ったことがある。名前は…確かゼルマルと言っただろうか。なにぶん昔のことなので記憶が薄れている。
オットーは彼のことをこう言った。
「あいつは自分から人を遠ざけるくせに、それを逆恨みして憎むような奴だ。その上手癖も悪い、うちも何度かパンを盗まれてる。だから絶対あいつにだけは関わっちゃダメだ。もし物乞いをされても無視するんだ、いいね?」
確かにゼルマルは村の皆から嫌われており、皆彼を避けるように暮らしていた。
それは果たして彼が悪かったのか、それとも皆に嫌われていたからそんな人物になったのかは今となっては分からない。
でも、仮にもしあの時自分が彼に手を差し伸べられていたのなら、あんな事にはならなかったのではないかと時々思うことがある。
それは儚い想像でしかないのだが……。
そうやって村の暮らしにとけ込んでいったある日、放牧から帰ってきた子羊の具合が急に悪くなった。丘にいた時は元気だったのに、今は熱でもあるのか少しぐったりしている。
「風邪にでもかかったのかしら」
羊が病気になった時は薬草を食べさせればいい。それは修行をしていた頃から知っていたので、カタリナはシュテルンを連れて森へ薬草を取りに行くことにした。夕暮れの森は少し恐いが、シュテルンと一緒なら大丈夫だろう。
「シュテルン、私を守ってちょうだいね」
病気に効く薬草は道の脇ではなく、少し森の中に入ったところにある。カタリナは注意深く探して薬草を摘んだ。
「これから冬だし、少し多めに摘んで乾燥させておこうかしら」
シュテルンの鼻も頼りにしながら、カタリナは森の奥へと進む。その時だった。
森の奥に少しだけ開けた場所があり、そこで誰かが火を焚いて何かを煮詰めている。カタリナは息を潜めた。シュテルンも何か察したのか、じっとしたまま同じ方向を見つめている。
「あれは、ゼルマルさん?」
彼はこっちに気づいた様子もなく一心不乱に炎を見つめていた。腰には何かの毛皮を巻き、ブツブツと何かを呟いている。呟きはやがて、詠唱となりカタリナの耳にもはっきりと聞こえてくるようになった。
どうぞ我を人狼にさせたまえ
男を食べる者にさせたまえ
女を食べる者にさせたまえ
子供を食べる者にさせたまえ
どうぞ血を恵みたまえ、人の血を恵みたまえ
どうぞ今夜それを恵みたまえ
偉大なる狼の霊よ
我が心、我が体、我が魂総てを捧げよう……
それは呪文だった。鍋からすくった何かを体に塗りつけ、彼は呪文を唱え続ける。あたりには異様な匂いが立ちこめ、息が詰まりそうになりながらもカタリナは何とかそこから遠ざかろうとした。だが、それがいけなかった。
足下から何かが折れるような音……小枝か何かを踏んだのかも知れない。だが、その小さな音は静かすぎる森の中では致命的だった。
そしてその音に気づいたゼルマルは、既に人間の姿をしていなかった。
「…………!!」
それからどうなったのか、思い出そうとしても夢の中の出来事だったようで、上手く思い出すことが出来ない。
ただシュテルンが自分をかばうように人狼に立ち向かってくれたことと、最後に聞いた悲痛な鳴き声は心に深く残っている。自分を真っ直ぐ見たシュテルンの瞳だけは、あの忌まわしい出来事の中で決して忘れることは出来ないだろう。
そして森の中を無我夢中で駆け抜け、隣村から帰ってくる途中のオットーにぶつかり、藪から人狼が出てきて……オットーが一心不乱に石を振り下ろす中、自分もただ人狼に杖を振り下ろすしかできなかった。
一体何が悪いの? 人狼になったゼルマル? それとも彼を見放していた村の皆?
それを黙って見ていた私?
私、人を殺してしまったの?
私、一体どうしたらいいの?
その後カタリナはすべてオットーの指示に従った。人狼を丘に埋めることも、お互いがお互いを信じられるように毎日同じ樹の下で逢うことも。
あの後古い書物で調べたのだが、自分を人狼に変えるためのまじないは呪文と共に複雑な材料の軟膏を作ること、そして「満月の夜、月が中天にさしかかる頃」に効果が発揮されるものらしい。あの時自分やオットーが助かったのは効果が発揮される前だったからなのか、何か呪文や材料に間違いがあったのか、それとも例え人狼だとしても多人数で立ち向かえば何とかなるものなのかは分からない。
ただ、村の人はゼルマルがいなくなったことに対して特に関心はなかったようだった。「厄介者がまた何処かに流れていった」と、皆の心からも消え去り今へと続いている。
「……ナ……カタリナ」
気が付くとオットーが自分の前に立っていた。いつもの優しい笑顔。でも、時々それが少し後ろめたいこともある。
「どうしたんだ? ボーっとして」
「ううん、ちょっと考え事をしていたの」
カタリナは慌ててオットーに微笑んだ。今の幸せを壊しちゃいけない。今ある幸せはオットーのおかげだと言っても過言ではないのだから。
オットーはモーントの頭を撫でながらカタリナに問いかけた。
「どうしてモーントって名付けたんだ?」
真っ白い牧羊犬はおとなしくオットーに頭を撫でられている。その面影はかつてのシュテルンを思い出させ、カタリナの胸を少し痛めた。
「真っ白くて空に浮かぶ月みたいだからモーントって名付けたの。顔つきもシュテルンに少し似てるでしょ、あの子が星だったからこの子は月なの」
「そうか、じゃあカタリナを守ってくれるシュテルンのようないい犬になるよ」
「そうね。きっとそうなるわ」
カタリナはふと空を見上げた。空は高く、優しい日差しが二人に降り注いでいる。
「今日もいい天気ね」
「ああ、そうだな」
二人がこうしてお互いを人間だと確信している限り、再び人狼が蘇っても立ち向かえる。
もしかしたら自分がオットーに抱いている気持ちは、信頼と何かを錯覚しているのかも知れない。だがお互いが別の場所にいてもオットーは自分のピンチには来てくれるだろうし、自分もオットーが大変なときは何があっても助けに行くだろう。
織り姫と彦星が星の船に乗り会いに行くように、雨が降ってもかささぎが橋を作って渡っていくように。それが二人の見えない絆。
「オットー。手、繋いでくれる?」
「……えっ?」
「なんとなく、手が繋ぎたくなったの」
するとオットーはカタリナの隣に座り、左手をそっと握った。隣を見るとオットーは少し赤い顔をしている。
この温かい手を再び人狼の血で汚すことがないように。
カタリナは空を見上げたままオットーの肩に頭を預けた。