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MK

輪郭のはっきりしない建物、行き交う人影。
安価に模造したパイプオルガンの不協和音は
雑踏とその不明瞭な会話を不明瞭のままに浮き立たせていた。

「胎児は夢を見る。前世の記憶をもとに」

制作者自身がニューソート、ニューエイジ思想の信奉者であるかどうかに意味はなくて。至って無意識的、無自覚的に想起させられた、発信者も受け取る側も絶えず反芻させれられているもの。メディアだけでなく創作の界隈でもそう突飛なものでも既になくて。

このモダナイズされた「胎内巡り」は統括するアートディレクターの趣味...か、クライアントの意向に沿った意図なのだろう。

あらゆる表現形式が今やワンネス的潮流(それが主に経済界からの要請であるならSDGsと名を変えたガイア思想)に呑まれているのだから、鑑賞者にここで繰り返し念押しするなら返って魔法が解けてしまう。

※ 解説にはそんな事は一行たりとも、仄めかされてもいない。けれどアートの作品解説など韜晦以上の意味があるとは思えないし、制作者のバックグラウンドに想いを馳せることを禁じられてもいない。

「クリエイター」や「クリエーション」というカタカナ語にも密かに強い違和感を覚えるほうなのだけれど、より厳密に、あらゆる表現形式に流れている「通奏低音」に対して、かなりの忌避感情がある事に改めて気づけた。

単に現代アートは難解で苦手。でいいのだろうけれども(ネコを被る中の人である)モヤモヤを、一度整理しておきたかった。その意味でもトリエンナーレ、貴重な体験をさせていただきました。