無意識で自分の気持ちを後回しにしている
私は、寺を優先する考え方の環境で育ったせいか、「寺の都合=親の機嫌」になっていたように思います。そのため、自分の本当にやりたいことは、親の意向に沿わなかった場合、選択していないです。でもそれは、「親の機嫌を優先する」生き方だったとやっと最近気付きました。
親も我慢しているから、子どもも我慢が当たり前
寺という環境では、我慢が当たり前で、「娯楽」は悪いもののような気持ちがありました。遊ぶことや、やりたいことをするって、日常生活の中では気分転換として必要なことです。でも、そういった「娯楽」に対して「後ろめたい」気持ちを持たされていました。そのせいか、必然的に「親が喜ぶ・納得するような」選択をしてきたと思います。要は、親が我慢して寺の仕事をしているから、「自分だけ楽しむのは悪いこと」のような価値観に付き合わされてきたんですね。そうやって自分を我慢させるような選択が習慣になってしまい、「自分が幸せになる選択」を避けるのが当たり前になっていました。しかも、それに気付いたのは、この数年です。
自分より他人優先
「自分のやりたいことを優先するのはワガママ」という考えを、特に母親から押し付けられていました。だんだん、寺の都合というより、親の気持ちを優先するのが習慣になり、言われなくても汲み取るようになり、それが対人関係でも癖として発揮されます。いつも相手優先になってしまい、「私が相手に対して一生懸命期待に関わるほど、相手は私を大事にしない」というパターンに気付くようになりました。私が友達関係を維持する努力をしていたつもりでも、相手はそこまで一生懸命じゃないんです。だんだん、私は相手の希望を汲むような付き合いになり、疲弊するというパターン。これに気付き、「最近は相手に合わせすぎない、自分の希望も伝える、断る」ことをするようになりました。こうやって、やっと少しずつ自分の気持ちを優先する行動を取れるようになっています。
体調不良やドン底と時は自分の本音に気付きやすい
私は、体調不良が長引き、生き方も含めてドン底に落ちた経験があります。もう、「とになく何もしたくない」という状態で、エネルギーが全くありませんでした。そんな時、少しずつ何かやりたい気持ちが芽生えた時、その気持ちは「普段は蓋をして誤魔化してきた本当にやりたかったこと」でした。これは、元気な時には理性で抑えていたので、全く気付けませんでした。
しんどい時は、「理性的な行動」は私にとっては「親の期待や意向に沿う考え方」であって、「絶対やりたくない」気持ちとして姿を変えたんです。
本当の性格にも気付く
檀家など、人が常に出入りするような環境で育ち、人に関わる仕事もしてきたため、私は自分が内向的な性格とは思っていませんでした。ただ、悩みやすく繊細な面がある、人間関係で苦労する、などは自覚していました。でも、人と話せないとか、そんなことはなく、自分は交友関係が派手ではないけど、標準的な社交性はあると思っていたんです。
それが、自分の気持ちを優先するようになって、「本当は人と長時間過ごすのがしんどい」「1人の方が楽」「踏み込まれたくない」性格だと気付いたんです。本来の私は内向的で、社交性のある面は寺という環境から作られた後天的な性格のようです。今まで、接客などで愛想良く関わっていたことや、踏み込まれて不快な気分になっていたことは、本来の私の性格には無理していたようにも感じました。
状況変われば付き合い方も変わる
今までは、友達とはこれからもずっと変わらず付き合っていきたい、付き合えるように努力していきたい、そう考えていました。でも、今の私は違います。体調不良を経験し、考え方、関わり方を変えるようになりました。無理してモヤモヤしながら付き合っても、私は幸せでも楽しくもないんです。
環境、状況が変化して、お互いに一致していたものがなくなると、価値観も合わなくなるのは自然なことです。それに気付いてから、合わなくなった感覚を感じれば、無理して関係を続けようとせず、距離を置いたり、去られても追わないようにしています。
今の私は、自分の気持ちを大切にできる生き方を始めたところです。だから、たとえ今までの友達と疎遠になって1人になったとしても、納得できます。今までの「相手に迎合する私」に合う人達は、今の私とは合うはずがないから。この中には、もちろもちろん親も含みます。
まずは、自分の心を穏やかに、幸せに感じる生き方を優先し、それを維持しながら関われる人達を大切にしたいと思っています。
今日は、気持ちに焦点を当てて綴ってみました。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。