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親切を素直に受け取れない

私は、母親からの愛情が条件付きだったこともあって、他の人からの親切も素直に受け取れない時があります。反射的に、警戒心や恐れに近い感情が出てきます。これって心理学でいう「投影」ですよね。

コントロールするために注がれた愛情

母親は、自分を手伝わせるために、私に愛情を注いでいるように見せてきました。優しく何か面倒を見てくれた後、必ず「さっきやってあげたから、これ手伝って」と。拒否権はありません。この積み重ねから、「親切にされると怖い」「怪しい」と心のどこかで思ってしまうようになりました。

通用しなくなると暴言で自尊心を失わせてコントロール

親切と引き換えに手伝わせることが通用しなくなると、否定、暴言で自尊心を失わせてコントロールしてきました。たまに、「自分に不安を感じさせないように」感情的になって阻止することも。例えば、「こんなことしたら、怪我する!私の勘は当たるから、やめて」みたいな感じです。
結局、全部「自分のため」でした。心底では、夫や子どものためではない行動です。

弟のことは溺愛、私は愚痴の吐き溜め

母親は、私が小学校低学年の頃から、姑舅、夫、親戚の愚痴を私に聞かせました。そうすることで自分の不安を軽減させ、心を安定させていたんだと思います。一方で弟のことは溺愛で、何でも肯定的でありのままを受け止める。私が、結果ありきでしか認められないのとは真逆でした。
私に愚痴や不安を吐き出して、嫌な面をたくさん見せておいて、弟にとっては良い母親であったのかと思うと、私は損な立場だったなと思います。

理解ある親のように関わろうとする

数年関わりを経っていた私ですが、2年前頃から連絡は取れるようにしました。それでも、物を送ってこられるのが続くとストレスになり、送らないように伝えています。私がつらい状況の時も、静観してただけで「見守ってきた」と都合の良い解釈。何も力になっていなくても、私に良い結果が出たら「してやった感」。そういうのに嫌気がさし、必死で距離を保っています。
一方的な押し付けの愛情を、「感謝すべき」と思っているところがあり、全然理解なんてできていないのに、「こんなに理解してやってるのに通じない」と、私が悪いことにされがちです。ポイントは、「〇〇してやってる」という上からなところ。どんなに、こちらの社会性や常識などの価値観が親を超えていようが、親の方が上である前提になっています。

都合が悪くなると私になびく

弟が、親の期待通りに生きていないのか、私が家を出てから寺のことで意見を求められたことがあります。的確にシビアなことを指摘した途端、母親から「あんたは親に砂かけて出ていったような立場。出ていった人間が口出しするな!」と。いやいや、アンタが意見求めてきたんでしょ…

これ以来、私は一切関与しないようにしています。私が実家にいないことで、愚痴を聞く立場と、察して親をサポートする立場がいない訳で、いろいろ問題は起きているはずです。だから、困って相談したんでしょ?でも、私が早くに結婚して実家を離れてたとしても、状況は遅かれ早かれ同じだったはずで、問題に目を向けようとせず、先延ばしにしていただけです。

親の気持ちや行動が重い

親も先が見えてきているので、物を送ったり親切にしながら関わろうとしてきて、私には重いです。私に何か期待して、頼ってきているように感じてしまうから。
子ども時代の「〇〇してあげたから、今度は〇〇して」が蘇ります。油断して情に流されたら、自分が潰れると思っています。本当は純粋に、愛情ある親切かもしれないけれど、もう私には信じることはできません。それだけ不公平や理不尽が蓄積された結果なので。

親と他人は違う

頭では、親と他人は違うことを理解しています。でも、純粋に「ありがとう」って親切を受け取れないんです。「これは親のパターンに当てはめなくていいこと」って考えるようにはするけれど、そう簡単に考え方の癖って変わらないです。最近は、気付けるようになっただけでも、そこは前進した思うようになりました。思考の癖を修正するのは、この作業の繰り返しです。先が長いけど、自分らしい幸せに近づくために、努力する毎日です。
とりとめなく綴りましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。


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