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論理的でありたいが、論理は嫌いだ。

もののけ姫のサンのようなセリフから入ってしまいましたが、ここ最近、ビジネススキルとしての「論理」について考える記事を書いていたのですが、今日は、単なる個人的な「論理」への想いです。(なんだそれ…💦)

結論から言うと、論理的でありたいと願うけど、その実、論理って嫌いだなぁ。笑 
何言ってんだコイツ?となった方、以下、よろしければお付き合いくださいませ!

ʕ ·ᴥ·ʔ 好きか、嫌いか、それが問題だ。

これは、とある日の、とある夫婦の会話である。


夫: 次の休みにどこか出かけますか。
妻: ディズニーランドに行ってみる?
夫: 疲れるから、ディズニーランドは嫌です。そもそもディズニーが嫌いですし。
妻: なんで?楽しいじゃん。ミッキーかわいいじゃん。
夫: いや、あれはネズミです。着ぐるみも不衛生ですし。
妻: 行けば楽しいかもしれないじゃん?ディズニーランドに入ったら、世界観がすごいんだから!


その後、喧嘩になる。

それぞれの言っていることには一理ある。
夫はディズニーへの嫌悪感による確証バイアスによって、「ディズニーランドに行く=疲れる」と主張するが、実際は、どこへ出かけたとしても、程度の差はあれ、肉体的に疲労することに変わりない。
しかし、「嫌いだから、行きたくない」は、自由選択できる状況において、詭弁とまでは言えない。

一方、妻はディズニーへの愛着による確証バイアスによって、「ディズニーランドに行く=楽しい」と主張するが、ディズニー作品自体へ嫌悪感を抱く人を説得させる合理的な理由にはなっていない。とはいえ、アミューズメントパークである以上、行って楽しくないわけはない。
したがって、これも非論理的とまでは言えない。

これは、好き・嫌いの価値観に関わる問題で、夫がディズニーを好意的に受け入れられるようになるか、妻がディズニーに嫌悪感を抱くようになるかしない限りは、永遠に理解しあうことは難しい。この状況を打破しようと、根気よく対話を続けてみたところで、好き・嫌いは幼少期以降の経験に基づくものであって、一時的な対話でその価値観が覆る可能性はほぼない。

こうした状況下では、仮に伝える技術、伝家の宝刀、ロジカルコミュニケーションを身に付けていたとしても、無力と化す。

ʕ 。ᴥ。ʔ コアラは考える。そして行き着く。

解決策は、①夫が折れる(我慢してディズニーに行く)、②妻が折れる(我慢して別の場所に行く)ことしかなく、ディズニーの話から早く離れる提案をするのがベストである。相手を納得させようとすればするほど、確証バイアスの効果は増していき、対立という結果を引き起こす

夫婦間だけでなく、家族間、友人間でもよくある話である。
これはある意味、生物が「認知」の生き物である以上、致し方ないことである。ここにどれだけ論理性を求めても、おそらく得はない
特に「論理」が好きな人間、もしくは「論理的」になりたいと思っている人間は、そういう諦めも心のどこかに持っておかなくてはならない

この例で言えば、もともとの議題は「ディズニーに行くか行かないか」ではなく、「久しぶりに重複した二人の休みの日をどう楽しく過ごすか」であり、そのコミュニケーションの結果が喧嘩になるのは、それこそ論理の敗北である。

本当に論理的であろうとするならば、「あ、この会話は危険だ」と察した時点で、お互いの確証バイアスの話が得を生まないことに考え及び、己の論理を捨てて、より建設的な方向に軌道修正することであろう。

そこまで出来て、初めて「論理的な人間」となり得るのであろう。
こんな単純なこともできないで、何が「論理」だ。

奥が深い。論理の内には論理があり、論理の外には論理があり、論理の向こうには更なる論理がある。
そして、バイアスという人間らしさが、論理を隔て、そこから新たな論理に辿り着く。

…論理は人間という生物が論理的・合理的でありたい願いの希望でありながら、一方で、人間の非合理的な本質を顕にするものでもある。

人は論理的であり、論理的でない。
だから…私は論理が好きで、そして、嫌いだ。


ロンリロンリ言うて、ゲシュタルト崩壊気味かと思いますが、ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます!m(._.)m
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では、また次回!

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