日々の泡の薔薇
過去に所有していた本をもとにここでは綴ったごく短いエッセイですので、うろ覚え度ここでは半端なく。お詳しい方はその詳細に渉らぬうろ覚えぶりをお楽しみなさってみては。
ボリス・ヴィアンの「日々の泡」ではクロエが肺の中に睡蓮を咲かせて死んでゆく。人の中に咲く花、もう一つの連想はルドルフ・シュタイナーの「瞑想と祈りの言葉」西川隆範編訳に記述があっただろうか、薔薇と十字の瞑想。この瞑想過程において像を結ぶのは胸のあたりだろうか。
シュタイナーが提唱した人智学者であるための条件とは、確か「少なくとも人を愛そうと努力する・基本姿勢を持つこと」だいだいこのようなニュアンスであったかと。これが極まれば永遠に胸の内で咲き続ける「薔薇」が像を結び生命力を放っている、そのことが瞑想をする他者にもわかりくることもあるだろう。
これが生成り馬なりでそうなっていることは「マレ」なのだが(何故かというと普通にしていると低次のエゴが邪魔をするものなので)、noteで古井 由吉の醸すようなというのだろうかそんな薫りが読み取れるかもしれぬ美しい文章を綴る人物のアストラルのなかには薔薇が咲いていた。
文学的成果がどの程度であるのかそのようなことを文章を綴るものは気にしてしまいがちであると思う。そこから別の視点からになるが、なんでもないことを綴るだけでそんな人物は世界におおきな貢献をするだろうと感じて。
失礼した。