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ミヒャエル・エンデで思い出したこと

 昔、ミヒャエル・エンデの著作で、アウシュビッツ収容所での実話として記述されていた文章があった。「オリーブの森で語りあう」か「アインシュタインロマン」の中でだったか今ちょっと定かではないけれど、このような話だ。

 明日ガス室に送られることになる収容者が、食事でくすねたじゃがいもに目を描いたりし人形に見立てた。
 日々強制労働に従事させられ劣悪な環境下で暮らしておらぬものには、容易には推し量れぬであろう感情と共にあるその人々。明日わが身に降りかかる出来事を戯画化し、人形の寸劇を演じた。

 囲むひとびとの輪に消え入る束の間、遠慮がちな存在の融和、憐憫、人形に投げかける微笑みがあったかもしれない。怒りや涙が枯れ忘れられた状況下でも、ペーソスが機能することがあるような気がする。人間の高次精神の面影、残照。ひとがひとらしくあることを保っていることがより深く、悲しみを誘うことがある。
 前のめりに倒れる、武蔵坊弁慶や阿弖流為(あてるい)などのイメージが喚起する、そんなある種類の性質のもとに行動していったものに思いを馳せるよりも、当然かもしれないが強いられて命を終えた収容される人々、移入者の深淵に喚起されてくる、救済が見つけがたいほどの悲哀が存在する。

なぜ今、アウシュビッツ収容所なのか。この世界を覆う世紀に一度クラスの災禍が、全面的にアウシュビッツ収容所を思わせる、いやそんな生易しいものでなく、アウシュビッツ収容所を地球全地域に拡大再現しているように、日々強迫観念が深まってゆくからだ。数歳の幼子から母親の胎内の赤ちゃん、果ては遺伝子の彼方のこれから生まれて来るすべての魂にまで、十分な試験をしていない遺伝子操作薬物を、あれよあれよという間に軽く70%を超える人類に投与してしまった。インターネットの国際情報を緻密にフォローするサイトは相当に難解だが、丁寧に毎日フォローしてゆくと、全世界で年平均死者数が原因不明の増加を続けている。次々に変異する対象ウイルスだけでなく、さらに強毒性強いエイズまでがヨーロッパ諸国に出現している。量子力学に相似形、フラクタルという概念があり、空間または時間的に相似性を持つ事象に関する用語だが、より簡単に言えば、歴史は繰り返すということだ。

InDeepブログ 岡靖洋

 ペーソスに希望という徳がほのさしていることがある。状況がどうであったとしても。カート・ヴォネガットがその飄々をした作風をも持って、ドレスデン爆撃を描いたりしたが、今ヴォネガットが地上に蔓延する生物学的手法による大爆撃を記するなら、どのように描くのか読んでみたい気がする。僕は、少しだけ、クスッと笑うだろう。
 「得てしてそういうものだ」

「すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった」。「夜と霧」の冒頭へフランクルが差し込んだこの言葉を、かつて疼くような思いで読んだ。あるいは、こういうこともできるであろう。「最もよき私自身も帰ってはこなかった」と。今なお私が、異常なまでにシベリアに執着する理由は、ただひとつそのことによる。私にとって人間と自由とは、ただシベリアにしか存在しない(もっと正確にはシベリアの強制収容所にしか存在しない)。日のあけくれがじかに・・・不条理である場所で、人間ははじめて自由に未来を想いえがくことができるであろう。条件のなかで人間として立つのではなく、直接に人間としてうずくまる場所。それが私にとってのシベリアの意味であり、そのような場所でじかに自分自身と肩をふれあった記憶が、「人間であった」という、私にとってかけがえのない出来事の内容である。
                        一九六三・九・二八 

「サンチョ・パンサの帰郷」石原吉郎 あとがき全文


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