昔、ミヒャエル・エンデの著作で、アウシュビッツ収容所での実話として記述されていた文章があった。「オリーブの森で語りあう」か「アインシュタインロマン」の中でだったか今ちょっと定かではないけれど、このような話だ。
明日ガス室に送られることになる収容者が、食事でくすねたじゃがいもに目を描いたりし人形に見立てた。
日々強制労働に従事させられ劣悪な環境下で暮らしておらぬものには、容易には推し量れぬであろう感情と共にあるその人々。明日わが身に降りかかる出来事を戯画化し、人形の寸劇を演じた。
囲むひとびとの輪に消え入る束の間、遠慮がちな存在の融和、憐憫、人形に投げかける微笑みがあったかもしれない。怒りや涙が枯れ忘れられた状況下でも、ペーソスが機能することがあるような気がする。人間の高次精神の面影、残照。ひとがひとらしくあることを保っていることがより深く、悲しみを誘うことがある。
前のめりに倒れる、武蔵坊弁慶や阿弖流為(あてるい)などのイメージが喚起する、そんなある種類の性質のもとに行動していったものに思いを馳せるよりも、当然かもしれないが強いられて命を終えた収容される人々、移入者の深淵に喚起されてくる、救済が見つけがたいほどの悲哀が存在する。
ペーソスに希望という徳がほのさしていることがある。状況がどうであったとしても。カート・ヴォネガットがその飄々をした作風をも持って、ドレスデン爆撃を描いたりしたが、今ヴォネガットが地上に蔓延する生物学的手法による大爆撃を記するなら、どのように描くのか読んでみたい気がする。僕は、少しだけ、クスッと笑うだろう。
「得てしてそういうものだ」