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若き青年の獄中日記1946年5月10日


私は
母方の祖母横山幸子の弟の友人である小野哲さん
の獄中日記を手にしてしまった。
彼はBC級戦犯で南の島で処刑をされたらしい。

まずはワタシの祖母幸子の話だが
幸子は佐賀県から広島の江戸末期から創業のワカサヤという足袋屋にお嫁に来ていた。幸子は東京の大学に進学し先に進学していた兄と暮らす。兄が熱心にしていたテニスサークルで夫となる横山寿郎と出会い結婚。寿郎の家は平和公園のすぐそばの本通りという商店街。それは現在、西から東へ伸びているが江戸時代は、北側のお城から南へのびていてその通りにあった。商店街の通りは江戸が終わり明治となると幸子と寿郎の暮らす足袋のワカサヤ、の辺りから商店街の道は東西に伸びる通りと変化し、現在の本通りとなる。
その家からほんの少し先の島病院上空で原子爆弾は炸裂したと言われているので、骨も残さず、祖母や家族は跡形もなく消えた様に亡くなった。

幸子の娘、蓉子が結婚する頃、蓉子の祖母、つまり幸子の母から郵便が届く。
幸子が書いた17歳の時の日記と1945年4月に佐賀県の親元に書いた手紙、「これは幸子の遺書のようなものよ」と書き添えられていた。私の父も母も両親を戦争で亡くしているからか戦争の話は一度も出たことはなく、

私が50になろうかという頃に、母の兄の家の仏壇の引き出しから原子爆弾で亡くなった祖母が疎開先の息子に送った手紙が出てきた。従兄弟は「お父さんから大切なモノだと聞いていたけど、見たことなくて、出してみたら手紙だったのよ、さゆりちゃん!」と。それは何十通もの1945年の手紙だった。
それを母に伝えた時に「実は、こんなのがあるのよ」と祖母の日記と故郷に送った手紙を出してきてくれたのだ。

その手紙がきっかけで私は祖母やその故郷佐賀県の祖母の父、母、も気になり、色々調べ始めたのだ。そして、見つけてしまったのが、小野哲さんの獄中日記である。小野さんの一番の友達が祖母の弟で、彼が処刑される最後の言葉が、祖母の弟森田修に残した言葉だった。そして彼は祖母の父森田判助にも言葉を残していて、そのおかげで私がこの冊子を見つけることができたのだ。

それは彼が獄中で
ザラ紙にびっしり鉛筆で書き綴り続けた
生きた言葉だった。

其の言葉を書き留めて
戦友達が印刷した冊子であった。

これは
人の目に触れるべき言葉達だと思った。

此の印刷された紙もいつかは朽ちていく。

どうしても書き留めておきたいと思った。

そして此処に・・・


終戦後の1946年
フィリピンのルソンで4月22日戦犯となり
縛首言い渡される。1946年7月16日に処刑されるまで獄中で綴り続けた日記である。

それを此処に綴り始めた現在は2024年。
彼は生きていたら現在103歳。

では、此処から日記だ。


川村巌 殿
小野政雄殿
ご両親 様

小野哲 拝

五月十日 金曜日

去る四月二十二日縛首の宣告を受けてから約二十日を経て、

そろそろ首に縄が絡みさうですから、
今日から逐次御別れの漫談でも書き初めることに致します。
此処の死刑囚は今約五十人で私の獄舎は八名、河野中将(53)溝口少佐(42)内藤さん(42市民)多吉伍長(30)平田曹長(26)植木さん(19)小生(26)で死ぬのも知らぬげに日ねもす馬鹿話、歌、浪花節で陽氣にやってゐます。
米国の陸軍次官とやらが来た時に死刑を宣告された者達とは思へぬとて驚いたとのことです。河野中将も子供の様に春画を書いて廻したり初恋の話をしたりです。
どうも話が此辺に落ち着く所は多吉さんと平田曹長に皆が気を合はせるからでせう。内藤さん大分鳴らした悪党らしくニヤニヤ笑って決して嫌な顔はしません。タバオの邦人です。植木くんは十九才で日本語、英、支、西、ビザヤ語でぺらぺらやり、目玉がぐりぐりした可愛い顔をしてゐます。皇軍が討伐をやったのに通訳で行って、16才の時、兵隊がやった事件の通訳をやったとかで死刑です。日、比の二重国籍で随分派手な生活をやってゐたらしく話す所は華族の様です。顔が良い故に囚人前には米軍婦人部隊へ通訳に行ってゐたさうです。飯は食い慣れぬので食えぬと何時も残すのでドル箱です。河野中将は銃剣術九段(日本で一人)剣道七段、柔道二段でなかなかの気骨漢です。溝口少佐は兵隊から務めた人で神道で毎日座禅をやってゐる反面情に脆い人です。

部屋は金網張りのセメント床、明るくて広々とした中々、心地の良い所。備品は洗面器、寝台、水筒、毛布、蚊帳、煙草道具、洗面具。

一人顔振れが抜けました。台湾のリンさん(24)さんです。純情なはきはきした好青年です。其父に宛てた手紙は名文で日本の教育を受けた凛々たる気迫、南国の情熱、父への孝心が溢れてゐました。台湾600万の代表だと意気込んでゐます。

日常生活は朝勝手に起きれば歩哨(ホショウ・軍で警備などの任務につく兵)が歯ブラシを準備してゐる。煙草を吸って(極めて豊富)朝飯が差し込まれる。懲役組が掃除に来る。散歩(警戒兵付の二名宛)15分、便所、昼飯、散歩、水浴、晩飯、寝る。
持て余す暇はワイワイ騒いだり昼寝したり、トランプ占いをやったり、マァ、屠殺前の豚位いなものです。死刑執行者が出る日丈は流石にヒッソリしてゐますが翌日からは又陽気です。

歩哨(ガード)は二名まで服務して米人らしくなかなか茶目で親切、掛り下士官も実直純朴そのもので私は看護婦から来た人形をプレゼントした位ひです。
"good morning Ono 大尉"
"Yes You are グレン "
"Okay youplat no captain okay?"
"OK and your hanged,Ishall be out ・・・・・・・・・guard it's change"
"ok no no no-good "
"ウハ・・・・"

多吉さん息せき込ませ目を細め
多吉「のぅ〜内藤のオッサン、そろそろ首に来るで何ぞぇー話してくれんかの〜 あのさズロースに手を突っ込んだ話良かったぜ」
内藤「それや 何処(ドコゾ)の話だ 俺は月経不順の娘作る様なお前と違って話しはないぜ」大体話は此の辺から始まり結局内藤さんもドロを段々吐いて来る。
各人遂次戦斗に加入して境遇の多面な各人の話題はつきそうにありません。
皆少し腹が減ってゐるので食物の話となると唾を飲み込む苦しさに「もうよそう」と云ふことになります。

死刑執行の命令が来て刑場に行き他の者は刑を執行されたのに何かの都合で刑執行前のビールを飲んで来たと云ふ者が出来た。
内藤「オイ死ぬ前にはビールを飲ますさうだぜ」
多吉「イヤ 何でも食はすさうだ」
小野「そりゃ 初耳、良いのぅ」
内藤「本間さんはすき焼き食ってエライ気炎でそれ射て!と張切ったので射手がこわかったそうですぜ」
多吉「ビールは太田大佐が始め飲むと云ったので其れから何時でも出すそうですぜ」
内藤「山下さん(山下奉文)は早かったので知らずに飲まなかったそうだ。それからの大田大佐は刑まで寝ると云って一眠りしたさうですぜ」
内藤「フ・ン 大した度胸だな、よい気味だ」
多吉「内藤さん、あんた何食いますか?」
内藤「やっぱりすき焼きはエイですな、小野さんは何です?」 
小野「正油や水の代わりにバタを使ってやれば良いすき焼きが出来るさうです。先ず甘いケーキにクリーム、
チョコレート、すき焼き、鰯の缶詰でウイスキー飲んで、生卵飲んで、ドリヤン此の辺ですね」
多吉「何か一ツ日本らしいのが欲しいですな。焼き茄子に味噌はどうです?」
小野「ハ・・・・」
内藤「餅はどうぢゃ!」
小野「ウーン、そりゃ良い ホレ あのすき焼きに餅いれてさ」
多吉「どうも日本人は味噌と餅が一番忘れられんのー」
小野『然し、多吉さん、毛唐は餅等持たんだろー」
内藤「今のうちに注文書出しとかんならんの」
多吉「せめてぼた餅でもね」
小野「砂糖の腐る程あるフィリッピンの邦人はどんなぼた餅作りますか?」
内藤「ソリャ、アンコが八部から一寸位で別にアンコを塗りながら食ふので それにココアを少し入れてね」
多吉「ヘェ」
小野「死ぬ前にゃ蓬餅(ヨモギモチ)位出してくれんかな。焼く時の香、ジュルジュルとはみ出すアンコ、
熱い奴をフーフー食い付く黄粉の味、昔しゃ大したもん食っとったですな」
多吉「アァ楽しみだな、こんな生きているか死んでいるかわからん生活より早くビール気嫌でブラ下がった方がましだ。荻野はもう安らかに眠ってゐますよ。何も考えずにさ」
内藤「こんな事になったぞ考えてみりゃ つまらんフィリッピンの奴に親切にして顔知られたばっかりに聞いたことも無い事件でフィリッピンの奴が名を出しやがったんだ!本当の本人はもう内地へ帰ってゐルンだが、奴ら、名を知らないんでワイワイ俺の名を証人が言ったんだ。お国の犠牲と諦めてはゐるが・・畜生!!」
多吉「ソリャお互いさま、何しろアメリカにしてみりゃ日本人を澤山殺し左へすりゃ良いんだからな、此調子で行きゃ死刑千人は下らんぜ!敗戦だ!」


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