うにまる的善悪論 第二夜
『生命尊重主義』
私はなるべくなら死を避けたい。
この文章を読んでいただいている貴方もおそらくそうなのではないだろうか?
「老いるくらいなら早く死んでしまいたい」
などと嘯く人も大抵は実際に死を目の前にしたら恐らく恐れ戦くに違いない。
人類はその命を守るために群れを作り、やがて複雑な社会システムを作るに至った。
その社会システムは必要以上に機能を果たし、人間はその大きなサイズの体にも関わらず、地球上に溢れかえるほどに繁栄する事となる。
我々が住む日本という国は約1億2千万人という世界でもトップクラスの人口を抱えた国だ。
先ずは、この国における死生観を考えてみたいと思う。
日本という国は世界から「非常に治安の良い国」だというイメージを持たれていると言われている。
確かに殆どの国民が生命に関わる重大事件に遭遇をすることなく一生を終えられる稀有な国であるとは思う。
戦争を拒絶し、徴兵制もなく、国民の生命は常に国家が守る事を【基本】とする人命尊重の国だ。
かつて、とあるテロが起きた際、別章でも書いた
「一人の生命は全地球よりも重い」
という言葉を引用し、テロリストと交渉してはならないという常識を無視してテロリスト達を利した首相がいたほどだ。
日本において人間一人一人の命の価値は限りなく重い。
一方で先進国では数少ない死刑制度がある国でもある。
この事に関しては死刑制度のない先進国からは非人道的であると非難を浴びている。
ただし日本においてもおいそれと死刑判決が出される訳ではなく、例えば3人以上を殺した様な凶悪犯に対してであり、その上で法務大臣が執行命令を出した後に執行され、法相が執行命令を出さなければ執行されない。
(原則的には死刑判決が出てから6か月以内に命令を出すことになっているが、実際には出さない法相も存在する)
死刑という刑罰は、国家が個人の生命を奪う行為である。
これは日本という国が生命を軽視しているという事なのだろうか?
私見として死刑制度の存在意義は
・他者を殺すという選択を排除できない人間を再び社会に戻さない為の手段の一つ
・命を絶たれるという最も重い刑罰の存在により殺人を思いとどまらせ凶悪犯罪を抑止する効果
その点において、私は十分に機能していると思う。
では、日本において死刑囚の命は軽いのであろうか?
死刑制度を支えているのは、多くの国民がそれを求めてという側面が大きい。
死刑制度の是非に関して国民への調査の結果、約80%が「死刑制度は必要である」と回答するという。
大半の日本人が死刑を是と考える根源は何なのだろうか?
それは「命の重さ」の感覚であると私は思う。
機能として挙げた、「凶悪犯罪者を再び社会に戻さない」という事を求めているというのは、感覚的には少し違う気がする。
数少ない死刑囚が社会に戻ったところで、回答している個人個人がその犯罪者の再犯の被害に遭う可能性は極めて低いほどに日本という国は人口が多く大きな国である。
むしろ、その死刑囚ではなく新たに生まれる凶悪犯罪者に殺される可能性の方が高いかもしれない。
実はそれよりも「命による贖い」を求めている様に思われる。
つまり多くの国民は、犯罪者がその命によりその罪を贖うことを求めているのではないだろうか?
ある意味、日本人にとって「死刑囚の命は重い」のかもしれない。
罪の贖いの為にその命が絶たれる事を望まれる程の価値あるものなのだから。
その為に国が犯罪者の命を絶つことを国民の多くが是としている。
「一人の生命は全地球よりも重い」の国がである。
一方で日本は己の命を絶つ事を認めてはいない。
と言っても自殺の事ではない。
いわゆる「尊厳死」などと呼ばれるものの話だ。
治療の方法がなく延々と続く苦痛から逃れる方法が「死」しか残されていない患者の「死の選択」を医療倫理の名の下に否定し続けている。
日本においては本人が望んでも容易に死なせてもらえないのだ。
私も安易な「自殺」を容認はしない。
ただ、もはや解決法の存在しない苦痛の中でただただ生かし続ける事が本当に倫理的なのか疑問である。
その話を突き詰めていくと、ある種の「自殺」も容認しなくてはならないかも知れないが、それだけで1冊の本が書けそうなので、一旦棚上げにしておこう。
日本においては、個々人が持つ「自分自身の人生の価値」と全体が考える「個々人の命の価値」に乖離があるように思う。
乖離というより「アンバランス」というべきかもしれない。
日本では個々人や場面場面における「命の価値」を無視し、盲目的な「生命尊重主義」の立場に立っているだけなのかもしれない。
これは大なり小なり欧米を中心とした先進国の価値観のベースとなっているのではないだろうか?
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