うにまる的善悪論 第六夜

『無知と善悪』

【無知は悪である】

仮に善悪の存在を認めたとして、私は【何が悪であるかを知らない無知】は【悪】であると思う。
ある行動が招く結果が法律や道徳・宗教上の問題を引き起こすとするならば、結果を見越せない【愚かさ】も【悪】である。

最近よく見かける【無法運転自転車】。
自転車は道路交通法上、ずっと昔から「軽車両」として分類されており、基本的に車道の左端を走る事が義務付けられているが、歩道に通行可能という標識がある場合に限って、歩道を「徐行運転」で通行することができる。

大切なことなので2回言っておくが「ずっと昔から」、今の道路交通法ができた頃から決まっていた事である。

東日本大震災以降、自転車の利便性が見直され、街中に随分と自転車が増えた。
そこで問題になったのは、「ルールを知らない自転車の暴走」である。

ちょっと前までは大目に見られていた様だが、あまりに目に余るとの意見が盛り上がり、ようやく本格的に取り締まる流れとなった。取り締まりが強化されると漸く見えてくるのが、

「そんなルールは知らなかったのだから許されるべきだ」

と言った違反者の意見だ。

これは、自転車に限らず、軽犯罪などの話ではよく聞く。

知らなくても【罪は罪】なのだ。

では、その罪は【悪】といって良いのだろうか?
例えば
「人を殺しちゃいけない?戦場じゃいつも殺してたんだぞ、人を殺しちゃいけないなんて知らないぞ」
は、【悪】なのか?

まぁ、極端な例だというのは分かっているが【無知】というのはそういうものだ。
それはそれとして【無知】についての考察はいったん置いておこう。

【悪意】が無くても、【悪】の結果を招く事はよくある事だ。

高齢者が自動車を運転している際にアクセルとブレーキを踏み間違えて暴走し、歩道を歩く多くの人を死傷させる【事件】をよく見かける。
これには【悪意はない】が【罪】であり、被害者や遺族からすれば【特別な悪】である。

これは、【無知の罪】とは異なるが似たようなもので、言うなれば【結果悪】である。

これはどういった理由で悪なのだろうか?

【道徳的な悪】なのだろうか?
自動車を運転する事は【悪】ではない。

【失敗が悪】なのだろうか?
我々は人生で必ず何かしらの失敗をするではないか!

【法的な悪】なのだろうか?
一応、法的な罰を受ける罪ではある。
が、事故自体は過失であり、【悪】と言い切れるものなのだろうか?

私は善悪は【人類の妄想である】という立場であるが、これをどのような【悪】あるか分類するならば、

【無思考の悪】【自己中心的思考の悪】【奢りの悪】

とでもいうべきかと考える。

いつもやっている運転だから自分が高齢者であっても事故など起こさないだろう、そもそも高齢の私にとって自動車の運転は生活に必須なのだ、だから社会は許すべきだという【無思考】【自己中心的思考】【奢り】だ。

自分の都合で周囲への危険を省みずに行った結果の事故である。

しかし、そこに悪意はない。

単に【愚か】であっただけなのだ。

【無知】や【愚か】は罪であろうか?
【無知】や【愚か】は悪であろうか?

我々は、何かしらの被害者が出た時に必ず【結果に対する責任者】を探す傾向にある。
それが自然災害であってもだ。

その悲劇に対して誰かが何かできたはずだ。
それをできた人間がそれをしなかったから悲劇が起きたのだ。

昔々は、それが【神】や【悪魔】や【超自然的な存在】だったり、全く責任のない誰かの何かしらの行動に責任を押し付けたりしていた。
今の日本では、それが企業や政府など力を持った集団に責任を押し付けようとする。

誰かを悪人にしないと気がおさまらない。
それが現代人なのだ。

大いなる自然の力の前に我々は無力である。

勿論、災害に対して政府ができることもたくさんあるだろう。
しかし政府は万能ではない。
手の届かなかった部分も出てくるだろう。
いかに力を持った政府であろうとも自然の驚異に対しては【非力】なのだ。

でも【責任者】として断罪される。
【結果悪】としてだ。

【無知】【愚か】【非力】によって起こった悲劇的な結果は【結果悪】として、【悪】の範疇に入れられてしまう。

これは誰もが犯しうる罪である。
つまり人間という存在は皆、どんなに気を付けていても【悪】である可能性を大いに秘めている存在といえるのではないだろうかと私は思ってしまう。

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