うにまる的善悪論 第四夜

『犯罪と善悪』

果たして犯罪者を悪人と言っていいのだろうか?
今回の話は、この問いから始めたいと思う。

我々は、【やってはならない事】をすると罪に問われる。
日本においては、裁判で【罪】を犯したと認められると犯罪者として確定し、所定の【罰】を与えられる。
形は大なり小なり異なるだろうが、人間が形成する集団では罪を規定し罰を与えるという方法がとられる。

法律の中でも「刑法」と呼ばれるタイプの法律により規定され、その集団の治安の根幹をなすものとなる。

このタイプのルールは、同一集団内で人がとってはならない行為を【罪】と規定し、その行為に応じた【罰】を与える事を基本とする。

どういった行動を【罪】とし、どういった【罰】を与えるかをどのようにして決めるかといった事は、集団によって異なる。

我々の住む日本の様な民主主義国家は、たいてい立法府と呼ばれる機関が存在し、立法府が法案を提出し法律を決める。
その立法府を形成する人間は、選挙という形で集団のメンバーたちが決める。

独裁国家は、その独裁者に決定権がある。
独裁者の決めた事が絶対であって、独裁者が決めれば罪のない人間を国が殺す事すら簡単にできる。

ある種の宗教国家は、聖典などに書かれている内容から決定する。
その聖典の解釈に関しては、その時点での宗教的指導者に委ねられたりする。

ある種の少数民族においては【古から続く掟】がその役割を担う。

ここで問題となるのは、各集団毎にルールが異なる点である。

例えば日本やアメリカの多くの州、韓国は、先進国としては数少ない死刑制度のある国である。
つまり何かしらの【罪】を犯すと、死刑という【罰】が与えられる可能性がある国なのだ。

シンガポールという国においては公共の場を汚す行為を【罪】として、厳しく罰している。

ある種の宗教国家では、聖典を穢したり侮辱したり、宗教指導者を批判したり、それ以外の国家では普通に行われている行為であっても聖典により禁止されていれば【罰】を与えられる事がある。

同じ行為であったとしても罪としてを犯したとして罰せられるかどうか、罰せられたとしてもそこに課される刑罰の重さが各【集団】により異なる。

また【集団】の違いだけではなく、タイミングなどによっても異なる。
日本が現行の日本国憲法を制定しそれをベースに法律が作られ始めたのは昭和21年以降である。

それまでは第二次世界大戦で、法律自体がきちんと機能していたとは言い難く、大戦以前は今とは異なる法律により統治されていた訳だ。

つまり、同じ日本であってもずっと同じルールであった訳ではない。

何が罪であり、その罪の重さが如何ほどかといった宇宙共通の一般的なルールなど存在しないのだ。

勿論、人を殺してはいけない、人からモノを奪ってはいけない等、我々が常識的に「それは犯罪である」と認識するルールもあるだろう。
しかし、果たしてそれが、全世界共通の認識であり、それを罪として罰が必ず与えられるかと言われれば、実はそういう訳でもない。
そうではない地域や、それが通用しない社会が存在するのもまた事実なのだ。

我々の多くは、自分が生まれ育ち生きている、その環境におけるルールをベースに善悪を判断しているに過ぎない。

だから、我々は他国同士が戦争をしていると【自分の集団における正義】を【世界の正義】と勘違いしてしまう。

他国の人間を自国に招き入れる際も、【自国の正義】が通用するだろうと甘い考えで後悔するのだ。

罪と罰の基準が違う人たちと交わる際には、自分たちの正義が通用しないであろう事を覚悟しなければならない。

逆もまた真なりで他国に行った際にも自分たちの正義が通用しない事が多い。

罪であるかどうか、またその罪の重さを反映する刑罰の重さが異なる以上、その集団とは大なり小なり【善悪の基準】が異なるのだ。
つまり、≪絶対的な善・悪は存在しない≫という可能性を考慮しなければならないのだ。

そうなると、犯罪者・前科者だからといって悪人扱いをしていいかどうかは分からなくなってくる。

また厄介な事に、これは集団のみならず各個人によっても異なるのである。


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