うにまる的善悪論 第一夜

『人類と死』

我々人間の社会において【死】というものは、とりわけネガティブで特別なイベントである。

そもそも日本を含む先進国において、人が目の前で死亡しているのを目撃するという事すら稀有な体験となっている。
人間以外の生命において死は、そこまで特別なイベントではないだろう。

肉食の動物は他の動物を食べる為に殺し、草食動物を含めた肉食動物に捕食される動物は食べられて死亡する可能性が高い。
死亡した動物を菌類が分解すし、遺骸から分解された物質を植物が栄養として利用する。
自然のサイクルをざっくり説明するとこうなる。

自然における死は特別な場所で起こる特別なイベントではなく日常の中で当然のイベントとして起こり、その【死】に善悪はない。

勿論、人間以外の生命も自らを死亡させる様な行動をとる事はない。
あくまで死は自然のシステム内での機能の一つとして起こる現象として彼らにも訪れるものなのであり、基本的には生命としての目的を果たす為に生存するための行動をとるのが基本であり、彼らにとっても避けるべきイベントではあるのだ。

重要な点なので再度言っておくが

「その【死】に善悪はない」

のである。

一部の哺乳類において、仲間や肉親の死に対して特別な行動をとるものもいるにはいるが、それ自体に【善悪の概念】があるかどうかは不明だ。

人間はいつから死を特別なイベントとして認識することとなったのだろう。

昔、こんな内容の論文が発表された。

「ネアンデルタール人が死者を埋葬の際に一緒に花を手向けていた」

埋葬されたものと思われる遺骨の近辺の土から植物の花粉が大量に発見された事からそう推測されたのだ。
これは現生人類の祖先の一種であるネアンデルタール人も現代人に近い死生観を持っていた可能性を示す論文だ。

ところが研究が更に進み、どうもこれらの花粉がかなり長期にわたり継続的に埋葬地に集まっていて、どうも埋葬時に一緒に埋められたものではなく、ある種のネズミなどが餌などとして、その場所に花を蓄えていた跡なのではないかという説も出てきている。

しかし、少なくとも遺体を埋葬した事が事実なのであれば、現生人類と近い【死への意識】があった可能性は残っている。

我々現生人類、とりわけ先進国に住む人たちの持つ死生観と彼らの死生観は同じ様なものなのであろうか?
もはや地球上に存在していないネアンデルタール人の死生観は、正確には知りようもないので結論の出しようがない。

しかし、現生人類が皆同じ死生観を持っているかどうかならば、結論の出しようがありそうだ。

その前にここで言及しておかなければならない事がある。
当然の事ではあるのだが

「死生観というものは人それぞれで【も】ある」

という事だ。

他人の命を何のためらいもなく奪う人間もいれば、自分の命をいとも簡単に断つ人間もいたり、自らの死を渇望する人間もいる。

とはいえ特別な場合を除き、人間という生物の死に対する共通の感覚やイメージはあるのだろうと考える。
ここから先はそれを「人間の死生観」としておきたい。

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