うにまる的善悪論 第三夜

『いのちと善悪』

【善悪】を語る為には、当然の事ながら【いのち】を語らない訳にはいかない。

人は必ず死ぬ。
生まれるという事はそういう事だ。
どれだけ生きられるかは人に依るが概ね0秒~120年の間だ。

生きるという事は生まれてから死ぬまでの間の生命活動の事だ。

生命の基本は

誕生→成長→成熟→繁殖→死

の個体のサイクルが世代を繋いでいく事である。

個体の目的は次に世代を繋ぐ事に過ぎない。
人間は一度の出産において妊娠してから約10か月を要し概ね1回に1人の子を産む。
種が途絶えない様にする為には一組のつがいから平均2人以上の子を産む必要があり、そこには人生のうちの2年以上の歳月が必要となる。

近年急激に人類の平均寿命は長くなり70年~80年くらいになったと言われているが、100年程前にはそれが30年から40年だった。

つまり、40年ほどの間に女性は少なくとも2~3人の次世代を生み出さなければならず、成熟し妊娠可能になる年齢も考えるならば、そして高齢化して妊娠しにくい、妊娠できない年齢となる事も考えれば、25年ほどのうちの2~3年は妊娠期間に費やされる事となる。

2~3人というのも、情勢や環境、経済や医学レベル・医療レベルが高ければの話であって、それらのレベルが低ければもっと子を産まねば種が途絶えてしまう。

つまり、人間(ホモサピエンス)という種が存続していく為には一人一人の次世代の命をより大切にしなければならないという訳なのだ。

この問題の解決策として進化したのが【愛】という感情ではないかと思う。

人間社会において【愛】という感情は様々な形で語られるが、ベーシックな感情としては次世代である【我が子を守る】という行為が鍵なのではないだろうか。

人間は、子がある程度成熟するまで親が子を守り養育する。
これは人間以外の動物にもみられる行動ではあるが、人間以外におけるソレには、そこに愛があるのかといえば、そうとは言えない行動が人間以外の動物には見られる。

例えば、ある種の猛禽類は甲斐甲斐しく雛を世話するのだが、エサが不足すると雛の中の最も虚弱な個体を親自身が殺す。
または移動生活をするタイプの哺乳類は、その移動についてこれない子を置いていく事も珍しくない。
彼らが子を危険から遠ざけるための行動は、子それぞれに対する【愛】ではなく、種を効率よく保存するための手段でしかない。
しかしながら、それの行動原理が人間の持つ【愛】という感情の機能を生み出したというのもまた事実なのだろう。

さて、我々人間はそういった生物と同様の行動を一切とらないのだろうか?

現代の先進国に生きる多くの人たちは、人間はそんな事しない・考えもしないなどと思うだろうが、日本には「間引き」という言葉がある。
いわゆる口減らしの方法として生まれた子供を殺すという行為である。

これはまさに猛禽類のそれと変わらない行為と言えよう。

ただ、人間である我々は【愛】と【社会】というものに縛られているからか、その行為を隠そうとした。
例えば、隠語である。
【間引き】が行われると、その行為は「お返しした」や「山へ行かせた」などという風に表現された。

この行為は日本の広い地域で行われていたらしく、地方ごとに異なる隠語があるほどだ。

隠すという事は、この行為に多少なりとも【後ろめたさ】があったのだろう。

【後ろめいたい】=【悪】

とすぐに言える訳ではないと思うが、【後ろめたい】と【悪】には感覚的に繋がりがあると言えそうな気がする。
猛禽類の子殺しの行動は繁殖の最適化であり、鳥の感情を知る由もないのだが、少なくとも人間的な【後ろめたさ】や【悪意】や【後悔】などはないだろう。

自然の中で個体の死は全体の繁栄の前においては通常大した意味を持たないのだと私は考えるし、きっと普通にモノを考える人にとっては常識なのだろうと思う。

ある意味人間にとって【いのち】というものは他の生命にはない特別な意味を持っていて、そこに【愛】という特別な感情が生まれ、【善悪】という概念と強く結びついているのではないかと思う。

勿論「善悪」という概念は、もっと様々な要素と共に複雑に人間社会に編み込まれているのだが、【いのち】の価値というものが大きく影響していると言っていいのではないかと私は思っている。

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