見出し画像

李琴峰氏について個人的に書き置いておきたいこと

はじめに

2024/11/25記載

 神道LGBTQ+連絡会に所属しています、Unit5と申します。
 こちらの記事は、X上での李琴峰氏に対する誹謗中傷を受け2024/11/7から編集を始めていた記事です。
 現在話し合いを続けている、筑摩書房発行の李琴峰氏著『言霊の幸う国で』における祝詞等の無断使用・改変に関して、正式な経緯説明やご報告に記載するには適さないと判断しX上で個人的に発信するに留めていた感想等を改めて公開し李氏に対しての不当な暴言や理不尽な差別への反対を表明することで、公平に話し合いたい諸問題が誹謗中傷の中に埋もれてしまうことを避けるのが当初の目的でした。
 しかし、2024/11/20に李氏が公開した声明以来誹謗中傷はさらに増え、今は以下を最優先で強く主張するべき状況だと判断しました。

 私は本件および関連した諸問題の双方納得できる形での解決を強く望んでいます。
 しかし、私は本件全期間通じ、李氏に対する批判に混ぜて不当な差別、侮辱、誹謗中傷を行う人に最も強い憤りを覚えています。
 そのような行動をする口実に、この問題を使わないでください。
 そのような行動を行わないでください。
 問題の健全な解決を妨げないでください。

 そういうわけで書きかけの部分がほとんどなのですが、内容は順次追加していきますのでお見守りいただけますとありがたいです。

ごあいさつ

 こんにちは。
 Unit5というアカウントを持っている者です。

 本来このアカウントは旅行や国外での生活について記録するために作成したもので、このような形でのSNS上での意見の表明には全く慣れていないのですが、私は神道LGBTQ+連絡会という有志の団体に所属しており筑摩書房発行の李琴峰氏著『言霊の幸う国で』における祝詞等の無断使用・改変についての対応にも関わっております。またそれらをX上で公言してもいます。
 とはいえ、本件に関しては私は祝詞を作成した会員でも李氏とのやりとりの窓口を担当した会員でもなく、窓口を担当した会員経由でご質問の一部にお答えしたりご相談に対してのご意見をお伝えしたくらいではあるのですが……
※この件の詳細に関しては今日の記事の本題ではないため、以下の記事などご確認いただけましたらと思います。

今日は何を書くつもり?

 さて本日は、Xでちらほらと話していた本件関連のポストをまとめ直したものを軸に、そちらに補足する形で私についてのこと、本件に関して李氏やその周りの方々に対してどう考えているか、書き連ねていきたいと思います。
 どうしても誰かを不快にさせてしまう表現や考え方が含まれてしまうとは思うのですが、誰かを否定したい、攻撃したいという思いに基づくものではないということだけは信じた上で読んでいただきたく思います。

なんでまた?

①自分いくら何でも得体の知れない人すぎやしないかと心配になったため
 神道LGBTQ+連絡会は基本的には匿名の団体であり、所属を公言している人もいればそうでない人もいます。
 匿名であるということは非常に難しく複雑な立場の中で声を上げるためには必要なことです。一方で、時には見る人に不安や不信を与えてしまうことも確かだと思います(そんな中で信頼を置いてくださっている方々に、この場を借りてお礼を申し上げたく思います)
 増して、私はこれ以前にはXをほとんど動かしておらず全く無名状態の人です。随分遅くはなりましたが、最低限の自己紹介はしておくべきだったなと反省しております。。
 なので、します。

②非対面かつテキストのみの交渉や話し合いの中で伝わり得ないものについて、補足説明が必要なのではと考えたため
 コロナ禍を経て広く一般的になったとはいえ、このような方法での交渉や話し合いでは最低限以上の情報が削ぎ落とされてしまい実際よりも険悪な雰囲気になりやすいものだと思います。
 特に今回は内容も内容で、やりとりも長期化もしているため基本的に双方相手の心象を実際より悪いものとして想像しているのではないかと思っています。意見にかかわらず全ての本件について気にかけてくださっている方々、特に李氏ご本人に対し「問題は問題として解決は求めていますが、敵意や悪意はない」ということを説明しても損はないのではないかと考えました。
 もちろん、敵意や悪意がなかろうと不快なものは不快であろうと思います。そこをどうにかしようとは思っていませんし私の側でできるものでもないと思います。なので、あくまで「私だったらそれを知ったら少しマシな気持ちになる」という主観に基づいたものになります。これがより多くの人にとって、同じく「少しはマシな気持ちになる」ものであったらいいなと願います。

③「2024/11/25記載」参照

私について

なにもの

 私は神社で生まれ神社で育ち、大学では主に中東に集中しながら宗教学の勉強をするかたわら神職資格取得のために神道の勉強や助勤(神社でのバイトをこのように呼びます)をしておりました。
 両親の「将来については自己責任で自由に」という方針もあり、大学卒業後は年末年始や大きなお祭の日を除き一般企業で金融関係の仕事をしたり海外で暮らしてみたりしています。今も国外におり、日本に住む方々より4時間先を生きています(時差)
 しかし、それでも神社で生まれ育ったという事実はアイデンティティに強く結びついたままです。そのため「神社関係者」を名乗っています。

神道LGBTQ+連絡会に参加した経緯

 私は子供の頃から常にぼんやりと加害者意識や罪悪感、疑問を抱えながら生きていました。周りの大人(主に祖父世代)の会話を勝手に聴きながら「戦争の言い訳に神社が使われていたのに、そのことを怒ってない。なぜだ」と感じたことを覚えています。
 大学で勉強を始めて以降は神道の「たったひとつの事実にこだわらない」という側面や「あえて詰めない」という性質に希望を見出しつつ、やはり過剰な日本賛美の根拠にされることへの恥じらいのような感情や、神道関連組織の名称とともに並ぶ選択的夫婦別姓反対や同性婚反対などの文言に抵抗感がありました。しかし、この時点でもまだ自分が何を嫌だと感じているのかあまり理解していませんでした。
 これらが徐々に理解できるようになってきたのは、神政連の差別的な冊子が話題となった時期からでした。
 何かしたい、するのが義務だろう、しかし何をすればいいのか見当もつかない。
 そんな時に同じくこの件に問題意識を持っていた連絡会の発起人と繋がることができ、今に至ります。

【編集中】2つの軸

 至ってシンプルではあるのですが、以下の2つが私の軸です。

①宗教関係者による宗教的権威を利用した差別への反対
②宗教に対しての、無知無関心や偏見に基づく差別反対

※すみません、こちら編集中に急ぎ公開したい事情ができたため、一旦9月頃からのポストの転記・文体の整理のみで公開します(2024/11/25)

この二者は一方のために他方を諦めなければならないという性質のものではないと考えています。
両立可能どころか相互に深い関係があるものだとも思っています。
ただ、これが追加説明なしでも誰でも直感的に飲み込めるような考え方ではないということも理解しています。

宗教による差別への指摘=宗教差別、との認識はありません。
それは私たちもやっていることです。
ただ、この国この時代にこの指摘を宗教に対する差別抜きに行うことは本当に難しいことだとも思います。
一応神社関係者である(からこそ他の関係者を蔑ろにする表現をしてしまったりもする)私にとっても。
だから私たち含め宗教関係者が自分たちの組織の持つ問題に関心を持ちさらに声を上げることが重要と考えると共に、何かを批判するために別の何かへの差別に妥協の姿勢を見せることには慎重になってほしいなと願うばかりです。

Xより

李琴峰氏に対して

本件が問題になる前から今に至るまでの印象について

 はじめに……
 前述した通り私は李氏と直接やり取りをした会員ではありません。これから「好印象でした」というお話をしますが、それは窓口を担当した会員の私を含めた他会員への情報の伝え方の工夫や配慮を土台としたものです。
 窓口を担当した会員の李氏への印象と私のそれとは間違いなく異なることと思いますが、基本的に窓口を担当した会員の説明の方がより事実に近いと考えていただけたらと思います。

 窓口を担当した会員より李氏からお声かけがあったという話を聞いたときは、小説家としての確かな実力を持った方が共通の問題意識を持って自分たちにはできない「物語を通じて現実に訴えかける」という方法でのアクションを起こそうとしている、ということを大変心強く感じました。
 先に触れた通り神道LGBTQ+連絡会の主張は時に複雑に見えるであろうとは当初から思っていたので、そんな「複雑」な連絡会にあえて声をかけてくださった、というところからも誠実さを見出していました。
 李氏のご質問やご意見の中には時に率直すぎるものも含まれていましたが、それは実情を深く学んで質の高い表現をすることを目指す意識から来るものだろうと解釈していましたし、李氏の方も忌憚ない意見や返答を求めて受け入れて下さっていたものと思っていました。また、ごく個人的な話にはなりますが私は基本的に慎重になりすぎてそもそも率直な質問を避けてしまうたちなので、そういう意味でも李氏に対して自分にできないことができる人だという尊敬の念がありました。
 この時期に感じたいい印象や尊敬の念を遡って撤回するつもりはありません。今の状況がどうであれなかったことにはなりません。あの時確かに誠実で意義のあるやり取りが行われていたのは事実ですし、それが双方納得できる形で実を結ぶ未来もありえたと思います。
 また、当時から心の内に言動に反する感情があった(不快感や苦痛を感じていた)ことは李氏ご本人も声明の中で語っていらっしゃいますが、それを悟らせない振る舞いを続けていたことは「嘘」ではなくひとつの誠実さの示し方だと考えています。

 この『言霊の幸う国で』の出版後の振る舞いにしても、最初に思ったのは「1年の空白期間の間に何か大きく心境が変わるような出来事があったのかもしれない」でした。それくらい、当初のやり取りでの印象とのギャップが大きかったです。
 と、こう書きながら(この文章の元になるポストは2024/9/30のものです)やはり最初から今に至るまで「李琴峰さんという人が『差別者』か否か」という観点は持たず、差別的な表現に対してはその背景に目を向けていたなと思います。だからこその真っ先の「何かあったのかもしれない」という発想だったのだと。

決して李氏だけの責任ではない

 連絡会からの声明文は、李氏ご本人にある責任、出版社にある責任、背景に当たる社会の現状、今この瞬間の状況をよくよく検討して、時間をかけて、そして文字数を作りました。
 また、人様の文章に乗っかる形ですが個人的にはこちらのshuさんの記事の内容も私の考えに非常に近いのでご紹介させてください。

 ここではそれに加えて、直近で否応無しに知ることになった観点について記載させてください。
 2024/11/17、この件について度々弱音を聞いてもらっている友人から、李氏が芥川賞受賞時のインタビュー動画で炎上しているようだという連絡がありました。
 度々話題にしているからでしょう、それはXを開いたら探すまでもなく目に入ってきました。ほとんどのコメントが李氏に対してとても失礼で理不尽な暴言でした。本件での李さんの態度の変化も、「何かがあったのかもしれない」の「何か」がおそらく誹謗中傷であろうということはご本人を含めた各所からの断片的な情報から察していましたし、こんなひどい仕打ちをこれまで何度も受けたのならと一定理解はしていました(一方的に決めつけて「理解」するのもまた失礼かもしれませんが……)が、今回実際にリアルタイムに近い形でその様相を見て、改めて悲しみと怒りの念が湧きました。
 2024/11/20、李氏のアウティング被害とカミングアウトに関する声明を読みました。
 最初は多くの連帯を表明する反応が見られました。私もそうあるべきと思いました。私自身も李氏がされた経験と覚悟、行動が報われてほしいと思いました。しかし問題はまだ解決していませんし、言わない・見せないだけで同じように死んでしまいそうなほどの状態になっている人もいます。だから、私はこの問題を含みおいた上で『言霊の幸う国で』を読んでほしい、という主旨のポストをしました。どこから目線だよという話ですが、問題をなかったことにはしないで、でも李氏の求めに応じたい人はぜひ応じて、という思いを込めていました。
 そして2024/11/25現在。
 確かに個人情報の公開は問題です。確かに李氏も前後の文脈を無視した文章の切り取りを元に他者に攻撃を行いました。確かに一部の話題において主張の説得力に若干の変化は生じるかもしれません。確かに李氏もアウティングを行いました。確かにそうです(ここについては既に他の方が指摘や言及を行っているため、今は私からはしません)
 しかし、そんな「確かに李氏にも責任がある」と言えるあらゆる事象が、どう表現するべきかもわからないひどい暴言に「使われ」ているように見えます。

 問題提起が何を引き起こすか、誰によって何に使われるのか。
 あくまで勝手な想像ですが、それを考えると問題提起に慎重になってほしかった、その方法に最大限配慮してほしかったと強く願うのは当然のことであったと思いますし、本件についての強い姿勢の理由を(許容するしないは別として)察することはできます。

 当然、そうだからといって問題がなかったことにされるべきではありません。
 健全に対応されるべきです。

 ただ、その健全な対応がなされていないのは李氏に不当な暴言を投げつける人たちのせいだと私は考えています。

現在英語を勉強している者としての余談と気になること

 李琴峰氏の著作は本件のものも含め何冊か拝読していましたが、文法的に綺麗な文章を書かれる方という印象が強いです。そしてその理由は複数の言語を扱える方だからだと思っています。
 というのも、私はいま英語を勉強しており、現在ようやく言葉を作るベースとしての第一言語(私なら日本語)に対して客観的? 相対的? な視点を得始めている感覚があるためです。義務教育当時逃げ続けた文法に向き合い日々言いたいことを表現しきれずもがいていると、日本語では無意識に省略する情報や日本語では重視しなくてよかった要素に行き当たります。外国語を勉強しながら、日本語という言葉の特徴への理解も日々高まっていると感じています。元の表現力が大したものではないので、私の日本語の文章については依然読みづらくなってしまっているとは思いますが。。

 それを前提に一点だけ、本当のところどっちなのか知りたいことがあります。
 本件に対しての李氏の声明の中で、おそらく極端な例として記載されている以下の箇所

宗教に関連づけた対抗言説を「宗教差別」だと糾弾する論理

 こちらが、神道LGBTQ+連絡会の主張であるかのように読めてしまう文章になっています。
 これまでの連絡会の活動実績や公開したものをご覧いただければこれは連絡会についての説明ではないということは簡単に読み取れると思うのですが、一方でこれは宗教差別に反対するにあたって連絡会が頻繁に受ける誤解のひとつでもあります。そのため、主語の追加や段落など工夫をいただけたらありがたかったです。
 単に急いで書いた文章だったからこうなってしまっただけで悪意はないものだと信じてはいるのですが、一方で高い文法のセンスがあり文筆家・小説家として名誉ある賞も取っていらっしゃる方に対してこれが事故であると考えるのも失礼では……という思いもあります。
 もし万が一、読み手が私たちが『宗教に関連づけた対抗言説を「宗教差別」だと糾弾する論理』を展開していると誤解することを期待してそう書いたのであれば、どうかその筆の力の使い方を考え直していただきたいです。

【編集中】本件について

【編集中】誰かが「差別主義者であるかどうか」という観点について

意味のない観点であると考えています。
私も宗教差別的言動をしたことがありますが、宗教による差別や宗教に対する差別に反対しています。
ログこそないけど11年遡るまでもありません。数年以内とかです。
その当時の発言の全てに個別の説明を行うことはできていませんが、今の方針がその時の言動に対する反省を含み、そしてその時傷つけた人が私や他の人から再び同じ傷を負わされるのを防ぐためのものになるよう考えながらやっています。
「昔の発言を掘り起こすより今の主張を見ろ」と言いたいわけではないです。
差別的言動をしたことがある人間を「差別主義者」と断じ、自分と違う存在として切り離すことに意味はないと言いたいのです。
だからこちらは「(誰かが)差別主義者であるか否か」という観点を持たずにやっています。
これは私も他の会員も長文でも短文でもずっっっと言ってます。
できたら他の方にもこの観点に固執するのをおやめいただきたい。
不要な溝が深まるだけだから。

X

李琴峰さんを殴ってるって捉え方やめてほしい。恨みがあってやってるとかじゃないから…
筑摩書房さんの出版社としての対応も合わせて抗議してるし、李さんの宗教に対する態度は李さん個人のみに原因があるわけじゃないって話もしてるし。
李さんご本人が殴られてると感じるのならその気持ちそのものを否定することはできないけど、周りの人が雑に状況を読んで雑に「殴る」と表現することには抗議したい。
声明だって1人を殴る形にならないように(そして実際1人を殴ればいいという問題ではないということを強く意識しながら)作ってるし。
もちろん受ける側の感じ方が発する側の意図(この場合だと「1人を殴る形にならないように作ってる」)を100%受け入れる必要はないと思ってるけど、敢えて悪意や攻撃意図を見出そうとする必要だって別にないでしょ?
どうして関係の薄い話を持ち出してまでここに「殴ってる」画を見出そうとするの?

X

さいごに

 繰り返します。
 私は本件および関連した諸問題の双方納得できる形での解決を強く望んでいます。
 しかし、私は本件全期間通じ、李氏に対する批判に混ぜて不当な差別、侮辱、誹謗中傷を行う人に最も強い憤りを覚えています。
 そのような行動をする口実に、この問題を使わないでください。
 そのような行動を行わないでください。
 問題の健全な解決を妨げないでください。

 どうかよろしくお願いします。


いいなと思ったら応援しよう!