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JBAラムリム講座第4回要約
この記事は(一社)日本仏教徒協会がチベット仏教普及協会《ポタラ・カレッジ》のクンチョク・シタル先生をお招きして開催している「チベット仏教『ラムリム』講座」の内容をダイジェストでまとめたものです。
ラムリム講座は途中からでもこちらよりお申し込み頂けます。過去分はアーカイブで視聴可能です。
今回は前回までの「聴聞の仕方」に対応して、
「説法の仕方」が説かれました。
本文に入る前に、クンチョック先生が「説法とは何か」について説かれたことをまとめました。
これらは、「仏教とは何か」を考える上で非常に重要なことのように思えます。
|出世間的|
ここでいう説法とは、師から弟子へ、僧侶から在家者へ説かれるものだけには限らない、とクンチョック先生はおっしゃいます。
例えば友人同士や身内の間でもそれはあり得ます。
しかしそのような場合でも、説法は”世間的”ではなく完全に”出世間的”であらねばならないといいます。
”出世間的”であるとは、煩悩や執着から離れた状態であり、普段の関係性や社会性からは離れたモードのようなものです。
この出世間的であるということを、さらにクンチョック先生は”逃げ場”とも表現されていました。
俗に対する聖、ともいえるかもしれません。
|最大の利他行|
また先生は、説法は仏教における最大の利他行である、とおっしゃられていました。
利他行の究極的な目標は他者を覚りに導くことであり、
釈尊(ブッダ)が述べていたように、その唯一の方法は、
真理を伝えること、般若の智慧を得る方法を与えることなのです。
後にも述べますが、仏法の一片のことばは、人生を変える力があるのです。
「仏教の利他行のほとんどは説法ですよ」とまで先生がおっしゃっていたことは非常に印象的です。
|何のための覚りか|
説法ということに関してさらに先生は、
仏教の本質は対機説法である、とおっしゃっていました。
対機説法とは、病気の例えを使えば、
医者が病人に応じて的確な薬を処方するように、
聴く人に応じて臨機応変に仏教の教えを伝えることです。
しかしそのためには説法者(医者)が聴く人(病人)のことを、
その過去・現在・未来まで見通すように深く理解しなければなりません。
その見通す能力が一切智であり、
一切智を身につけ衆生を救うためにこそ、説法者・大乗仏教の菩薩は覚らねばならないのです。
一切智がなければ説法もその他の利他行も”中途半端”になってしまうのです。
さて、ここから本文にはいります。
これまで述べたことが、具体的にはどのような心持ちや行動によってなされるべきかについて述べられています。
それは以下の4つにおいて述べられています。
1. 法を説く利得を思惟すること
2. 説法者と教えに敬意が生じるようにすること
3. 説法の際の思惟と行動
4. どのような対象者に説くか・説かないかの区別
|1. 法を説く利得を思惟すること|
これに関しては『倶舎論』に以下のように述べられています。
煩悩を伴わない布施によって、経などを正しく如実に示す
これを遂行するためには、説法の際には「過去のインドの哲人達ならどう考えただろうか」ということを常に問うべきだと先生はおっしゃっていました。
また上記の引用の世親自身による注は以下の通りです。
それゆえに、法を間違って説明するもの、心に煩悩があり、財産や称賛、名声を望んで説明する者、彼らは自分自身の福徳を損なうのである
ここでは説法の動機が問われています。
”人にこの教えを伝えたい!”であったり、”法を説いて有名になりたい!”といった、
説法者の煩悩に汚れた動機によって、自分勝手、一方的になってしまってはならないのです。
(そしてこれらのことは”宗教界ではよくある”ことなのだそうです。今も昔も、どこの地域でも変わらないのですね…)
説法によって功徳を積むか、損なうか。
その二つに一つの、覚悟を伴う行為であるといえるでしょう。
しかし『勇猛経』に以下のように述べられているように、
正しい動機による説法は、聴くものにとっても説法者にとっても非常に大きな福徳であるのです。
在家者が無量の財物を施すことよりも、出家者が法の言葉の一片だけでも施すこと〔のほう〕が福徳が勝る
ちなみに、説法の動機を改めるために、チベットのラマ達は、
説法をする前に大衆の前でも、指をぱちっと鳴らす動作をして、自らに無常を観じるということをしばしばされるそうです。
クンチョック先生がおっしゃられるように、
3、4人の前であっても、1万人の前であっても、
”ブレないこと”が肝心なのです。
|2. 説法者と教えに敬意が生じるようにすること|
釈尊が『般若経』を説かれたとき、高い玉座を用意してそこに座って説かれたといわれています。
それは説法者としての釈尊に敬意を生じさせるためではなく、説法者から説かれるその法(教え)に敬意を生じさせるためだといいます。
法(教え)および説法が仏教において如何に根本的かが伺われます。
|3. 説法の際の思惟と行動|
まずは思惟について。
前回の聴聞の方法にも出てきたのと対応するように、『海慧所門経』に記されるように、
説法者は以下のような想念(イメージ)を持って説法をなすべきだとされます。
自身を医者とする
法を薬とする
聴く人を病人とする
如来を最上の人とする
法の実践に永く留まる
4については、説法者を聖人のようであるように接すること、具体的な例では同じお寺にいる先輩僧侶を深く敬うように接すること、ということでした。
また、法(教え)を出し惜しみしないことや、説法をすること自体が自らの幸せの要素となることなども思惟すべきだといいます。
続いて、行動について。
ここは非常に具体的に示されているので、そのまま引用します。
沐浴し清浄にして清潔な衣を着て、清浄で好ましい場所において法座と敷物に座ってから、魔を制する真言を唱えてから、その周囲百由旬(約50km)以内には魔と魔に類する天などが来ず、来ても障碍することができないと『海慧所門経』に説かれているのでその真言を唱えてから、とても明るい表情で意味を明確にする支分である喩えと論証(論理)と教証(引用)を備えて説明するのである。
喩え、論証(論理)、教証(引用)のうち、
喩えと論理は説法者の自由度がありますが、
引用においてはきちんと経典や論書から引用してこなければなりません。
|4. どのような対象者に説くか・説かないかの区別|
『律経』に書かれているように、
「請われなければ為すべきではない」
といいます。
さらに請うてきた者についても、器を見極める必要があるといいます。
一方で、大乗仏教系の『三昧王経』には、
ふさわしい器と分かれば請われなくても説いてもかまわない、と説かれています。
同様のことは『大日経』でも説かれているといい、クンチョック先生曰くこのことは特に密教には当てはまるとのことです。
今回は以上になります。
文章:上村 源耀
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寳幢寺出家弟子。京都大学総合人間学部で哲学を専攻、在学中はITスタートアップ界隈、学童クラブ、映画美学校など放浪を重ね、「いかに生きるか」をもがきながら問い続ける中で龍源師および仏教に出会う。寳幢寺と関わり仏教に浸る中で出家を決意する。
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