JBAラムリム講座第5回要約
今回から、「教えによって弟子をどのように指導するか」に入ります。
特に今回は、「道の根本である師に親近する方法」を扱います。
仏道における成長・上昇の根本は、導師であります。
導師が重要なのは学校などでも同様でしょうが、
仏道の場合はそれが精神性を扱うという点において特異であると、
クンチョック先生はおっしゃいます。
そこでここでは、師匠・師事を決定するにあたって考慮すべき点・方法として、以下が挙げられています。
親近されるべき師の定義
親近する弟子の定義
弟子が師にどのように親近するかの方法
親近の利益
親近しない不利益
それぞれ詳しく見ていきますが、今回の講義では1つ目の「親近されるべき師の定義」を丁寧に見ていきました。
|三士の道において段階的に大乗に導く|
1つ目の師の定義はこちらです。
「三士」とは覚り(悟り)の段階のことで、以下の3つです。
小士:輪廻の中での幸福を願う(在家・人天乗)
中士:輪廻から解脱しないと苦しみを逃れられないと知り出家(出家・声聞乗(小乗))
大士:自分一人だけではなく一切衆生が輪廻から解脱するために仏陀になることを求める(大乗)
これらを段階的に踏んでいくこと、またその全てが「菩提道」の一部であるというのがツォンカパの思想の特徴です。
これに関連して、”仏教の利益とは何か”ということに関してクンチョック先生は、
「性格や人格を変えること」
とおっしゃっていました。
それは上座部(声聞乗・小乗)においては、怒りなく、落ち着いて、静かであることが理想とされますし、
大乗であればもっと複雑で、物事の見方が変わり、多視点的で、”嫌な事も後から考えると別にいいやと思える”というような心の状態まで含まれるといいます。
また、三士のそれぞれに関して別々の師匠に習う事も可能なのだとクンチョック先生はおっしゃいます。
例えば、戒律を授ける師匠、大乗を教える師匠、密教を伝授する師匠、
それぞれが別の師匠であり得るのだといいます。
|師の10の性質|
『大乗荘厳経論』に、以下のよき師の10の性質が上げられています。
調御され(戒律を護持:戒)
寂静であり(禅定の熟達:定)
完全なる寂静であり(正しい智慧:慧)
功徳が勝れ(戒定慧の体験的理解)
聖経に富み(経典の知識が豊富)
真実をよく証得し(特に空性の理解)
論説に巧みで(合理的・論理的な説明で)
憐愍の本質であり(慈悲を持って人を育てようとし)
精進あり(努力を尽くし)
疲労を離れた(何度でも嫌がらずに)
この1〜6は師匠自らが修行者として実現している条件であり、
7〜10は弟子・聴衆に教える能力を指します。
「自分が実践してよかったものを教える」というのが仏教の根本的な構造であるとクンチョック先生はおっしゃいます。
戒定慧については、もう少し詳細に見ていきます。
(なお戒定慧の内容に関しては、ポタラ・カレッジ出版の『ラムリム伝授録Ⅰ・Ⅱ』を参考にしました)
|三学:戒定慧|
戒「調御」
馬をコントロールする手綱に例えられ、
誤った対象を追い求めず、五感・反応を制御することをいいます。
それは戒定慧の三学のうち、「戒学(戒律)」によって達成されます。
(心理療法でいうところの認知行動療法にも近い働き・営みにも見えます)
定「寂静」
「定学(禅定)」に対応し、
念(対象を正しく心に保持すること)と正知(心の動きを監視すること)によって、
散乱する心を退き、落ち着いている状態を指します。
クンチョック先生はもう少しわかりやすく、
「定学」とは、「外界に五感・気を散らすのではなく、心を内面に向かわせること」と説明しておられました。
(近年認知行動療法にマインドフルネスが取り入れられ始めたのとも対応するように思います)
慧「完全なる寂静」
止(精神集中)と観(個別分析)によって達成され、「慧学(智慧)」に対応し、
個別具体的な事柄すべてに対する、くもりない観察眼を指します。
定学による寂静が「表面的に静か」であるのに対して、
慧学は「もっと深く静かである」ことを可能にする「判断力」のような能力を身につけるに対応するといいます。
戒を守る生活によって定の条件を整え、
定の寂静の心によって智慧を発し、
慧の正しい観察によって真理を覚る。
三学はすべて結びついているのです。
(認知行動療法が対処療法的になってしまわず、深く安定したものとなることを目指すには、この智慧・慧学の観点が必要かもしれません。)
|最後に|
クンチョック先生は、(法要や寺務もいいけれど、)
「お坊さんは哲学者でなければいけない」と喝破されました。
今回の講義を踏まえて筆者なりにまとめますと、その真意は、
自らの戒定慧の修行によって、
体験的に心と世界の真理を理解し、
それらを合理的・論理的にわかりやすく、
なおかつ慈悲と根気を持って人に伝えようとすること
と言えるでしょう。
今回は以上になります。
文章:上村源耀