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わたしの「うつ病」体験談

2週間ぐらい前から会社に出て来れない女性社員がいる。
2年目のママ社員で、春先から仕事のミスが続き、進捗が遅れ気味になっていた。
2度目の週末で体調が回復することを祈ったけれど、今週に入っても休みが続いている。
理由は頭痛とめまい。
病院に行っても原因不明で、フラフラして起き上がれない状況が続いているという。

彼女の仕事は完全にスタックして、チームメンバーが場当たり的に対応するだけでは問題が出始めていた。
昨日、対策ミーティングを開き、リカバリーのために状況確認、タスク整理と役割分担の話し合いを行った。

そして、チームリーダーに、彼女に連絡するように頼んだ。
「仕事のことは大丈夫。しっかり回せているから、まずはしっかり休んで。元気になったらいつでも戻ってきてね」
と。

身体と心はつながっている。
現代人の会社員生活は過酷だ。
ママ社員ならなおさら。

歯車がひとつ狂いだすと、途端にいろんなことが立ち行かなくなる。
自分が不在になったことで、何かが立ち行かなくなった時。
自分ひとりでは挽回が困難だと絶望的になった時。
身体が治っても、心が立ち上がれなくなり、元の場所に戻れなくなることがある。
だから、その人が戻ってきたらいつでも通常モードで始められるように、場を整えて、「戻る場所があるよ。待っているよ」と知ってもらう。

わたしの「うつ病」体験談

風邪 ⇒ 肺炎 ⇒ うつ病 に

大学3年の梅雨の時期、わたしは風邪をこじらせて一人暮らしのアパートで寝込んでいた。
地元を出て、東京の大学に進学してから、授業がないときにはバイトや遊びを詰め込んで、スケジュールをびっしり埋めていた。
たぶん心が寂しかったんだと思う。

風邪気味だったのに、気にせず出歩いて、完全にこじらせた。
病院に行った時には「肺炎」と診断を受けた。
さすがに体が動かず、このまま一人で死んでしまうのではないかと思った。

どうやって新幹線に乗ったのかは記憶がないが、死ぬ思いで実家へ帰った。
数日の点滴で肺炎は治り、体は快復した。
しかし、心が落ち込んでたまらなかった。

なぜあんなに自分を痛めつけるように休みを与えずバイトや遊びに明け暮れていたのか。
それが解せず、東京に戻るのが怖かった。
大学では教育実習前の授業が行われていて、単位を取得しないと実習が受けられないかもしれない状況だった。
単位を落として、来年クラスの中でひとりだけ教育実習を受けることになる状況を想像し、いたたまれない気持ちになった。
東京に戻ることを考えることさえ辛い。
とはいえ、今の地元はわたしがいるべき場所ではない。

居場所がない
居場所がない
居場所がない

毎日、目に映る景色はモノクロで、色がなかった。

母親に心療内科の受診をすすめられた。
医者は目も合わせずにわたしの話を黙ってきいて、
「うつ病だね」
と診断した。続けて、
「だけど、ちょっと風邪をこじらせたぐらいで東京から帰ってくるなんて、心が弱すぎるんじゃないの」
というコメントをくれ、10日分ほどの安定剤を処方した。
二度と会いたくないと思った。

うつ病の自分から見える世界

なんで自分が生きているのか分からなかった。
死にたいというより、消えてなくなりたい、という気持ちが強かった。
わたしという物体がどんどん小さく、どんどん透明になって、その薄い点がそっと消えたら誰もわたしを覚えていなければいいな、と。

そこからしばらくはめちゃくちゃだった。
処方された安定剤を一気に飲もうとして母親に見つかって泣かれたり、
包丁がキラキラして異常にきれいに見えたり、
海岸線を車で走って目を閉じてみたくなったり、
生きていることを呪っているような日々だった。

その時間は果てしなく長いようで、でも本当は3日ぐらいのことだったかもしれない。

奇跡の電話(1)

母親が仕事に行って、一人で家にいたとき、家の電話が鳴った。
わたしは本来、実家にいるべき人ではないので、電話に出なくてもよかったのだけれど、出ないといけないような気がして受話器を取った。

電話の相手はとても驚いていた。わたしがいると思わずダメ元で電話してきた中学の同級生だった。小中学校、ずっと一緒に同じ部活で、たくさんの時間を共に過ごしてきた幼馴染だった。
彼女も地方の大学に通っていたけれど、たまたま地元に帰ってきて、なぜかわたしに電話したくなったのだという。

「今からそっちの家に行っていい?」

と聞かれ、気持ち的にはすごく人に会いたくなかったけれど、偶然の機会に大喜びする彼女にどうしてもNOということができなかった。

彼女はすぐに家にやってきた。
わたしの部屋で、ひたすら小中学校時代の思い出話をした。
彼女はとても記憶力がよくて、いろんなエピソードをたくさん話してくれた。
ぼんやり彼女の話を聞きながら、わたしの子供時代の記憶が徐々に鮮やかに蘇ってきた。
『わたしはそんなふうにして、この地元で彼女とたくさんの時間を過ごし、部活に熱中して、ここまで生きてきたんだ』
さっきまで消えそうな点だと思っていたわたしの人生が、過去から現在までくっきりとした線(タイムライン)になって、浮かび上がってくる感覚を感じた。

奇跡の電話(2)

そのとき再び家の電話が鳴った。「この電話は、またわたし宛にかかってきている」と感じ、受話器を取った。
電話の相手は、意外にも教育実習の受け入れ先の大学付属中学の担当教員だった。

「体調をくずして実家に帰ったと聞いて、心配していたの。
 もう体調が良くなったなら、早く戻っておいで。
 授業のノートも同級生たちが取ってくれてると言っていたし、
 いま戻れば夏休み明けの教育実習も受けられるから。
 東京へ戻ってくるのを楽しみに待っていますね」

ほんの5分ほどの電話だったけれど、わたしの目に映っていたモノクロの世界は、みるみる色味を増していった。

わたしには戻る場所がある。待っていてくれる人がいる。

ただただうれしかった。
中学の同級生のおかげで、過去から現在につながった線が、2つめの電話により、一瞬にしてさらに未来へつながっていくのを感じた。

2本の電話のタイミングは本当に神がかっていた。
暗い井戸の底にいたわたしを、誰かが後ろから羽交い絞めにして、強い力で明るい地上へと一気に引き上げてくれたような感覚があった。
どちらかだけでも、順序が逆でも、うつ病の闇から救う力はなかったかもしれない。

次の日、わたしはスーパーでひまわりのブーケを買って、お礼として母親に渡し、早速東京の大学へ戻っていった。

振り返って分かったこと

たしかにあの日あのとき、わたしは神さまに救われた。護られた。
あの2本の電話がなければ、何年も這い上がれずうつ病に苦しんだかもしれない。

たった数日間の出来事だったけれど、うつ病の経験はわたしにさまざまな学びと気づきを与えてくれた。

  • うつ病患者の目に映る世界、絶望感

  • 居場所がないと思う恐ろしさ

  • 誰かが居場所を用意してくれるありがたさ

  • 温かい声かけへの感謝

  • 日々、自分を大切にいたわることの大切さ

この件に限らず、自分が「もうダメだ」と思うぐらい辛い状況を幾度となく経験するたび、人に共感する力が強くなっていったように思う。

しんどいこともムダじゃない。
全ては人生の糧になって、人にやさしくなれる。

それでは、お聴きください。
藤井風さんの「やさしさ」。

https://www.youtube.com/watch?v=vzhTpIIQR5I




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