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アダルトチルドレンという枠組みによる救済と自分を取り戻す苦しみについて
ここ数ヶ月、人生で一二を争うレベルで落ち込み、回復しようともがいているので、そのことについて詳しめに書きます。
メンタルが弱っている様子や希死念慮についても書いているのでご注意ください。
告白
私は友達があまりいません。
大親友だと思っていた友人とも、ようやく分かり合える人に出会えたと思えた友とも、会う機会が無くなれば会わなくなるし、気になることがあれば私から不穏な雰囲気を出してしまい疎遠になることもあります。
ゆえに、今いる友人たちは心が広くて根気強く付き合ってくれている人たちばかりで、なおかつ私自身が関わっていて疲れないことが条件になってしまいます。
細く長い付き合いというのが昔から苦手でした。
授業や仕事などで会う必要があるから人間関係を頑張っていたし、その必要がなくなったら会いたいと思うことも少なくなるのでした。
直面する悩み
今の仕事ではお客様と細く長くお付き合いしていただくための気持ちの良い営業を求められており、「友人関係と同じで何も難しく考えることはないんだよ」と上司に言われるたびに、苦しい想いをしてきました。
なんでこんなに苦しいのか自分に問うた時、私は友人関係を努力で乗り切ってきたんだ、と31歳で初めて自覚しました。
こういう時にこう言ってはいけないとか、この発言にはこの意図があるんだろうとか、そういうことを現代文のテストみたいに毎日繰り返してきたんです。
ADHDの診断を受けている私ですが、ASDの気もあるのだと思います。
その場をどう乗りこなすのが一番いいのか、ずっと頭を働かせて考えていたし、私の周りに笑顔があふれていると安心して自分を受け入れてもらえたと感じました。
しかしその結果、人が喜んでいないのは自分の力不足かもしれない、嫌な雰囲気は自分のせいかもしれないと思うようになりました。
そして、人に断られたりすることが極端に怖くなってしまったんです。
人生をやめたくなる、けどやめるのをやめる
こういう考え方を人に話すと、「なんで自分が人を楽しくさせられると思っているの?すごい自信だね」「他人をコントロールしようとしているように見えてあなたの方が怖い」「あなたの幸せのために周りの人がいるわけではないことに早く気づいた方がいい」みたいなことを言われたりして、自分が異常で自己中なのだと突きつけられました。
こんなのが生きてても誰の得にもならないわ、と人生を早めに切り上げることに納得がいきました。
しかしながら、そう簡単に逝けたら苦労しないですし、こんな私でも死んだら悔やんでくれる人たちがいるのです。
遺された人たちには計り知れない苦痛やトラウマや後悔があることを知っています。
そんな人を増やしたくはない。
結局人にどう思っていてほしいかでしか決められなかったのですが、一旦は生き延びる方向に舵を切りました。
回復のために学ぶ
ここまで他人軸なのはどうしてなんだろう、自分の本心を覗きこむほど「しんどい」とか「楽になりたい」みたいな本音がでてきて、生まれた時からこんなだったのかな、と思い、いろいろ調べてみました。
私の生きづらさの根源は発達障害にあると思い込んでいたのですが、発達障害をコントロールしても人生はうまくいかない、と絶望しました。
しかし、一方で別の原因があるならすでに医学的・心理学的にわかっていることがあるかもしれないと思いました。
そうしてたどり着いたのが、アダルトチルドレンという概念でした。
看護師になるために勉強をしていた十数年前から知っていた言葉でしたが、当時はピーターパン症候群や子供部屋おじさんなどと混同して捉えていたため、自分ごととして捉えるのには非常に抵抗がありました。
親とも絶縁し、自分の力で働いて、自分の力で生きているのに、「まだまだ子供ですね」と言われているようで腹が立ってしまうのです。
(ちなみに、私の家庭環境や生い立ちについて書いたのがこの記事です。
3本立てで長いのですが、こう育ったらこうなるか、というのがなんとなくわかってもらえるかもしれません。)
アダルトチルドレンの本当の意味
しかし、アダルトチルドレンについてちゃんと調べていくうちに、いろんなことが見えてきました。
家庭内暴力があったり、愚痴を聞かされたり、大人の事情に付き合わされた子供が、子供らしさを得られないまま成長してしまうことを言うのだと。
つまり、大人になりきれなかった子供ではなく、子供時代に大人を演じさせられた大人がアダルトチルドレンなのです。
そうした境遇は時に複雑性PTSDという長きにわたって培われる絶望感のようなものを持っていて、私の場合はそれが仕事にも影響していると感じました。
それに気づいてからはいろんな本を読んだり、アダルトチルドレンの自助会にも通うようになりました。
回復のためにはじめたこと
カウンセリングの代わりに取り組んでいるのが、これ。
スキーマ療法ワークブック
ワークをやること自体に苦痛は伴わない、と思っていたんですが、章の後半になるにつれ宿題がでて、真面目に取り組むほど大変です。
ストレスを感じた時に、その時の自動思考を書き取ったりして認知行動療法を習慣づけるのですが、この習慣づける、というのが本当にきつい。
今書いてても涙がでちゃう。
なんで私がこんなことしなきゃならないんですか、なんでこんな人間産んでくれてんですか親、責任とってきっちり私を始末してくれ、と嘆きたくなります。
しかし、この腹立たしさ、◯したいほどの憎らしさを発露できる、ということも立派な回復の過程。
そのことについて理解を助けてくれたのがこれらの本です。
アダルトチルドレン関連の本を読む
専門家ではなく当事者が書いているので、厳密な正確性には欠けたり言葉が強い部分もある気がしますが、とっつきやすさと「まんま私じゃん」という描写が多く、勇気をもらえます。
AC(アダルトチルドレンの略称)関連の本の多くには、本音の発露が重要と記されています。
つまり、親への怒りや世間への反抗心など、健全な子供が経験するはずの反抗期(小児期のイヤイヤ期と思春期の反抗期)をもう一回ちゃんとやろう、ということなのです。
そういうことを通して、どうやって回復していけるかな、というのを当事者の物語を通しつつ、専門的知識も踏まえて書いてあるのがこちらの本。
AC本の1冊目としては若干堅苦しいかもしれませんが、複雑性PTSDや愛着障害なを含め、ACを取り囲む問題を包括的に取り扱っていて、非常に勉強になります。
孤独な学びは時に自分を傷つけますし、本来理解者である夫や友人にも「健全なあなたたちにこの気持ちがわかってたまるか!」と当たり散らかしては目も当てられません。
(実際、そういう気持ちになることがあります)
そうならないためにやっているのがこれ。
自助会への参加
全国で定期的にミーティングが開催されており、私も通いはじめました。
境遇はみなそれぞれですが、そう思うのって私だけじゃないんだ、と思うと孤独感が紛れます。
何より、同じ症状(というのは不適切かもしれませんが、共通して感じられる苦痛や現象を敢えてこう表現させてください)を持つ人が複数人集まるのを見ているだけで「自分がこうなったのは自分のせいじゃないんだ」と思えるのです。
私は人が原因のミスは許せるし仕方ないと思えるけど、自分に要因があったかもしれないと感じるとずっとそのことを悔やんでしまうので、アダルトチルドレンを「降って湧いた不幸」と捉えられることが非常にありがたかったのです。
そして、定期的に弟とテレビ電話をするようになりました。
弟とは5歳歳が離れているため、育った環境は若干違うのですが、弟が生まれた時には母の鬱も父のモラハラもかなり進行していて、家庭内が崩壊していたので、彼も立派な被害者なのです。
だから、それぞれの苦しみを完全に分かち合うことはできなくても、「本当によく生きてきたね」と言い合うことでお互いを励ましあうことができています。
私にとって夫という理解者に出会えたことと、弟という同じ境遇を生きた仲間がいることは救いに他ならず、私が幸せになって彼らともっと長く笑っていられるように頑張りたいと思うのでした。
学びながら思うこと
これらの学びを得ながら、着実に回復には向かっていると信じたいのですが、気づきとして得られたものは今のところあまり気持ちのいいものではありません。
親もやっぱりアレだったんだな
彼らはやっぱり発達障害だったんだろうな。
そして彼ら自身もACだったんだな。
そして彼らを産んだ祖父母たちもまた、ACだった可能性が高いな。
そう思うと彼らに同情芯が生まれてしまい、折角ワークを通して彼らを糾弾する意欲を育ててきたのに、また自分の感情を仕舞い込んでしまいそうになるのですが、それとこれは別!
お前らの尻拭いを私の人生でさせるな!!! クソが!!!!!!
と、強い意志を持って中指を突き立てる勇気を持つことにしています。
ACの回復に必要なのはアウトローな精神(規範からはみ出すほどの元気な本音)。
やっぱり子供産まないって決めて良かったな
これはどの本でも慎重に議論されるべきと書いてあるし、私もACは子供を産むなとは決して思わないです。
しかし、少なくともうちの両親は120%子供を産んでいいほど成熟していなかったし、子供を産んじゃいけないタイプの人間は存在すると確信しました。
そしてかくいう我が家も、というか私が、母親になれないし、ならなくて良い!と強く思いました。
子供って不幸にしてまで産むものじゃない。
子供が好きとか嫌いとかじゃなくて、夫の遺伝子と私の遺伝子を持って生まれてくるからにはめちゃくそに幸せになって天寿を全うしてほしいし、そのためにはめちゃくそに大変な育児が待っているということもわかります。
だってうちの両親が出来なかったことですもの。
犯罪だけは犯すものか
トライアンドエラーのエラーで生まれ育った私たちは、犯罪を犯さないでいられるだけラッキーだと思っています。
世の中には自分で死ねなかったから無差別殺人をする人もいるわけですが、彼らの歩いてきた道は私たちの歩く道と地続きなのだと思います。
インベカヲリ★さんの「社会不適応殺」を買いましたが、自分のことが書いてあるんじゃないかと思って怖くて読めずにいます。
私はACから回復するまで自分のことを信じられないし、なんならそんなインナーマーダー(内なる殺人者)を成敗するのだという正義の心で自殺したくなってしまうのかもしれません。
落胆と絶望の連続
そんな自分の異常さや危うさをコントロールするために自覚できる練習を日々しているわけですが、あまりに0からのスタートというか、慶応に入ろうって言ってアルファベットの書き取りやってるみたいで馬鹿馬鹿しくなることがあります。
周りが毎日ビジネス書読んで商談に生かしたりEラーニングで英会話やったりしてる傍ら私は「嫌だった出来事:上司の長話でアポに遅れそうになった」「その時の感情:もう時間ないんだけど切り出せないイライラ」「体に出てきた反応:額に汗。胸がドキドキ。内腿あたりがそわそわ」とかノートに書き取ってるんです。
なんだこれ。幼稚園児さんか。
そうです。幼稚園児さんなんです。
その頃にさせてもらえなかったことを自分でやるしかないんです。
この不毛さ、情けなさ。
でも、やる
私が気持ちよく生きてくにはどうやらやってくしかなくて、そうじゃなかったらまた生きるの死ぬのとすったもんだ繰り返すだけで、いつかきっと成功して死ねてしまうか失敗して体が不自由になるだけなのだと思っています。
だから、苦しみながらやる。
馬鹿真面目にやりすぎるとまた本当にやめたくなってしまうので、ほどほどにやっていこうと思います。
本来有料にするレベルで赤裸々に書きましたが、誰かの救いや手助けになれば嬉しいです。
それではまた〜。
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