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ニヒリズムに勝つ
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
2025年の抱負は「ニヒリズムに勝つ」。
2024年を振り返るようなことを具体的にしているわけではないのですが、足がピタッと止まる瞬間が何度かありました。
「これやって何か意味ある?」
「誰か得する?」
「やったからって何なの?」
そういう理由が沸々と湧き上がってきて、急に興醒めするんです。
でも、やってみないと(良いも悪いも)結果がわからなかったり、無駄だったと判断することもできないので結局全て愚直にやるしかありませんでした。
この年末年始にあれこれ考えた結果、やらない理由は
①無知な者のただの屁理屈
②自分の下に何人も部下がいる場合に全責任を持って無駄を省く
の二択だと思いました。
この二択に該当しない場合、たとえ失敗したとしてもやる意義があります。
自分の身をもってトライしてみることで何が失敗した一方で何は成功していたのか考えたり、経験によって同じ目に遭った人の気持ちを理解したり、あらかじめ危機管理ができるようセンサーを研ぎ澄ませたりすることができます。
私は現在32歳なのですが、まだ数年はこのトライアンドエラーを身をもってガンガンやっていく必要があると感じています。
同世代と話していても、かなり話が合わなくなっている人や相手のレベルが高すぎてこちらがダメージを食らう人など色々いますが、『物事にどう食らいついているか』が大きな違いに感じます。
闇雲に当たって砕けるのは20代の挑戦。
経験をもって視野を広げるのが30代の挑戦。
だから視野を広げるつもりでトライして、自分をいかに成長させるかが重要なのだと思ったのです。
そこで私の大きな足枷となっているのがニヒリズム。
海外旅行が趣味の同僚の話を聴く時、出先の花屋で不意にガーベラと目が遭った時、白杖の方が困っているのを見た時。
「なーにドキッとしちゃってんの」と冷笑する声が聞こえるのです。
心が動いてから身体が動くまでの間にある神経を麻痺させるような、非常に厄介な毒。
それが「ニヒリズム」だと年々痛感しています。
私の両親はとにかく人を冷笑する人たちで、旅番組やアド街ック天国でさえも「こんなもん食ってもしょうがない」「こんなんで喜ぶようじゃ人生知れてる」と指差して笑っていました。
父の社員旅行で海外旅行などに連れて行ってもらいましたが、楽しかった思い出はほぼありません。
「どうせ無理」が口癖の母は鬱病になりました。
私もニヒリズムの遺伝子を色濃く引き継いで育ち、小中高と流行りのものには心の中で中指を立てていましたし、今も友達は多くありません。
しかし、周りを見渡せば人生を豊かにしているのは“何事も馬鹿にしない“人たちでした。
馬鹿にしたり後ろ指をさすのは、相手に知られなければ、影でやる分には構わない。
そんな風に思っていました。
けれど、何よりも自分の人生にとって毒だったのだ、と気づきました。
32年間、ニヒリズムという毒に侵され、自分を冷笑して挑戦する人を馬鹿にしてきたツケが人間力の差となって表れている。
そんな危機感を覚えました。
だから、2025年の私の目標(及びテーマ)は「ニヒリズムに勝つ」。
のびしろしかねぇ梶本時代に、今年もご期待ください。
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