肉食主義配信補足
このNoteはこの配信の補足です。
以降、この配信に関連する私の関心等をざっくばらんに書いていく。
牛乳について-菜食主義への関心の芽生え-
牛乳に関心を持ったきっかけはパオロ・マッツァリーノ『誰も調べなかった日本文化史 ──土下座・先生・牛・全裸』からである。
この本の「牛乳はまずい」という話が興味深かった。なぜか?
それは日本の牛乳は超高温殺菌をしていて、それでつく臭いがパオロは苦手というお話だった。
で、この本ではここまでだったのだが、以降牛乳関連のニュースを収集していると面白い事実に気づく。牛にストレスがかかればかかるほど、手間がかかり味はまずくなるというお話だ。
なぜそうなるのか? 殺菌を行うと臭いがついてまずくなる。これはパオロが指摘した通りである。それ以外にも暑さ寒さ、生活のためのスペース、人間の言葉でいう「パーソナルスペース」の確保は牛から見ても重要な問題である。そしてこの欲求が満たされない場合、体調を悪くする。その体調が牛乳の質、特に菌の混入具合に影響するという。
となると、もし牛の飼育方法を分けるとするなら以下のようになる。
既存の方法
空調はコストの関係でなし
場所代も節約したいので、パーソナルスペースなし
以上が原因で増えた雑菌を減らすため、餌に抗菌剤を混ぜたり強力に殺菌する必要あり
総生菌数は3.4-5.3万/ml(殺菌前)、殺菌後は0-10/ml
味はまずい
最近の原料乳の総菌数と生菌数の割合の動向
https://www.jstage.jst.go.jp/article/milk/46/2/46_89/_pdf/-char/ja
家畜等への抗菌剤の使⽤と薬剤耐性菌(農水省)
https://www.maff.go.jp/j/syouan/douei/shuninsha/attach/pdf/220519-25.pdf
殺菌を控える農法
空調を入れる(扇風機等)
土地を確保し、散歩させる
総生菌数は0-10/ml(殺菌前、殺菌しないのでこのまま出荷)
ストレスがないので抗菌剤等が不要になる
味はおいしい
無殺菌牛乳の取り組み
以上のお話は、聞いた時文字通り牛乳がまずくなるお話であった。いや、実際にまずい牛乳のお話だが。牛を満員電車よろしく牛舎に敷き詰め、そうした行為がストレスになり、ストレスから生じる菌のために薬を投入……と、無駄な工程が多いように感じた。
人間に対してもストレスを与えて投薬するより生活環境を整えろと医者は指導するだろう。ここで示される牛の苦痛は全くの「無駄な苦痛」であった。
こうした話を聞いて以降、私が感じる味のために、酪農される生き物の状態への関心は増した。
なぜ屠殺は残酷なのか?
同じように「解決策」がまた「解決策」を必要とする構造を屠殺の話として耳にするようになった。
たとえば、稲作なら残酷とされる光景はない。種まき、収穫、精米の過程で隠されることはまずないし、あるとすればそれは企業秘密のような経済上の問題ぐらいだろう。
他方、精肉の過程は表に出てこない情報が半分ぐらいだろうか。私達は豚や牛、鶏をしめ、解体する過程は目にしない。近所にもない。畑での農業体験はしばしばテレビでも取り上げられるし、学校がやることもあるようだ。しかし屠殺”当然”子供はやらないし大人もやらない。専門の職業とされている方が人知れず行っている。
さて、これには例外がある。一部の学校で「いのちの授業」という形式で動物を飼い、後に食べるという授業をしている。
さて、以上のお話を「見る」ということで考えてみよう。私も野菜や穀物は食べるが、畑仕事をしているわけではないからである。
畑仕事を見ることは負担ではない。唐突に広告で流れてきても驚かないだろうし、近所でやっていても気にならないだろう(音はうるさいそうだが)。
見たければYouTubeでも動画は簡単に見つかる。
他方、屠殺を見ていられるという人は少ないだろう。
現代思想内の信岡朝子『静寂の理由』で詳しくまとめているが、屠殺の現場を見るとしばらく肉を食べられないし、強いショックを受けるという。
屠殺のリアルな映像はなかなか手に入らないが、ニコラウス・ゲイハルター『いのちの食べかた』という映画が現状一番良い資料だそうだ。
この映画の趣旨は大量生産/大量消費を批判するという意図があったそうだが、映画自体はナレーションなしに各工場、すなわち野菜を選別する工場や精肉工場、を紹介する形式をとっているという。そしてそれは残酷なのだそうだ。
私達はスーパーに行けばほぼ確実にハムやソーセージ、あるいは加工前の食肉そのものを購入できるだろう。しかし、屠殺場は遠ざけられている。
この辺の事情を簡単に説明するために、配信では沖縄の事例を紹介した。
なんとも効率の悪いお話である。なぜ生活に「必要不可欠」な精肉工場が僻地に追いやられたり、近隣住民に配慮して大量の出費を迫られるのか?
もちろんそれは、そも食肉がどうにか「加工」しないことには私達には飲み込めない事実だからである。
改めて沖縄の豚事情を引用しよう。
以上のような事実から私が言いたいのは「豚や牛がかわいそうだ」”ではない”。むしろこうした陳腐な事実を、どれだけの努力をして私達は目をそむけているか、またそのコストを考えている。
肉食を「見ないようにする」
牛乳の話と同じように私は考える。ストレスを与えて抗菌剤を与えるのは二度手間である。”同じように”肉は食べるがその事実から目をそむけ、屠殺場を僻地に追いやり、それでいて大量に肉を買うというのはいかにもおかしなことだ。肉が好きな人は、こうした屠殺場の事情、また経営状況に関心があるのだろうか? 自分の好きなものが安定して供給されるのはとても重要なはずだ。しかし、そうした情報は隠されている。
配信でも触れたように「現代思想(雑誌)」が肉食主義を扱ったのもこうした”怪奇現象”のためである。特に哲学の視点からすれば「日常にあって、多くの人が依存しているのに、”それ”が排斥され、しかも排斥された事実さえ残らない」という人間の行動は、「興味深い」以上のどんな行動だと言えるだろうか。この観点から動物倫理の知識を持つ人は「なぜ肉を食べるのか」を研究している。この奇妙な思考を解明する理由になると考えているからだろう。
なぜ肉を食べるのか、については現代思想を読んでもいいが、私なりの結論は歴史的なもの、である。かつて大っぴらに肉を食べた始めたので、今でも人々は肉を食べている。特別な理由なぞない。そんなこと考えなくても肉は買えるのだから。
しかし配信のラーメンの歴史からわかる通り、環境は変わる。戦後、ラーメンは一気に広まった。それまで油や肉の重要度は低かったが、戦後の焼け野原である、カロリーの重要性がラーメンを定番料理に変えた。
福沢諭吉も牛肉を「滋養強壮に良し」、牛乳を「万能薬」とまで呼んだ。しかし現在、カロリーと脂質は控えることが求められる。
今後は「肉は健康に悪い」以上、食肉は減少するだろう。それが考えられる理由もある。私もベジタリアンとして生活するとはどういうことと興味があったのだが、興味深い証言だった。
この動画のSatoshiによるとヴィーガン(完全菜食主義)ができた理由の一つに、アメリカ合衆国では肉と区別がつかない代用肉が売られていて、それで満足したことが挙げられている。
2023年現在、日本で代用肉を食べるのは手間である。しかし現在の健康志向-カロリーと脂質を減らすこと-を突き詰めれば代用肉は有力な選択肢になるだろう。ここでいう代用肉は大部分が大豆で作られていて、栄養的には肉から脂質を抜いたようなものになっている。となると、乗り換える障害はさほどない。
かつての肉食と今の肉食の違い
あるいは、代用肉以外の未来もあるかもしれない。すなわち沖縄の例で紹介した通り「各家庭で家畜を買う」パターンだ。
家庭から家畜を追い出し、工場に詰め込んだ結果、豚の臭い云々とも「問題」が生じたのである。それなら、各家庭で家畜を育て、屠殺まで行うなら何も問題はない。
しかしそれが困難なのはすでに書いた通りである。屠殺を見ただけで人は多くの場合ショックを受けるし、まさにそうした「精神的コスト」を外注しているのが現在で、これが過去と大きく異なる点である。
配信でも「肉食は伝統文化」という意見があったが、上記の観点が重要である。まさか精肉工場は伝統文化とは言わないだろう。伝統と言えそうなものは明治の肉食以前から続いていた猟師の肉食文化などである。
中世のドイツよろしく、冬までは残飯を豚に食べさせ、冬には非常食として消費するという形なら供給過剰にも供給過多にもならないし、少なくとも精肉工場の立ち退きの問題も起こらない分、長く続くだろう。
福沢諭吉が「肉食を穢れと嫌う日本の伝統(神道)」から脱却することを目指し、近代化を求めてここまで肉食が定着したのは驚くばかりである。人間は天性の性質から、人間は肉も野菜も穀物も食べられる。だから両方食べた方がいい」という論法も現役だ。これが牛馬會社の広告としての文章だったのも興味深い。
とはいえ福沢も現代の精肉工場に来て同じことが言えるかは興味深いし、現代でもなお「明治以前の迷信の根絶」を目指すべきかははなはだ疑問である。現代人は忘れてしまったが、福沢の目的はここである。
ジェンダーと肉食
肉食という「嗜好(好み)」についての鋭い視点はメラニー・ジョイ(配信中で引用した動物倫理の人)も指摘している。が、ジョイの指摘はやや難しい。家父長制云々とか。なのでここではもっと砕けた形で表現してみたい。
なぜ一時期、恋多き人間を肉食系、恋少なき人間を草食系と呼んだのだろう? これは科学的事実に合わない。教科書レベルのお話だが、肉食獣は数が少なく、性交渉も少ない。他方、草食獣は多産で数も多い。うさぎはセックスシンボルとして有名だ。なのに、なぜ肉食系が恋多き存在と考えられたにのか?
同じように食にも奇妙な偏見がある。これは以下の文章を引くのが早いだろう。
ここで紹介されているポール・ロジンはペンシルバニア大学の教授なので、この調査は合衆国の意見を反映している。たとえばスシは板前のイメージから日本では男性的と捉えられそうである。
とはいえここで男性は肉、女性は甘味という傾向が見えるのは興味深い。
もちろん、女性は肉を食べないし男性は甘味を食べないということはない。
が、「社会的ステータス」や「イメージ」と言われるものとして、男性は肉を食べるのが”普通”で、女性は甘味を食べるのが普通と認識されていることが伺える。
そしてこの認識はある程度現実にも反映される。「なぜか女性は牛丼屋に入りにくい」という現象がたとえばそれだ。
このように、何を食べるかは想像以上に「社会的地位」を反映している可能性が高い。この辺を文章にするならやはり「◯◯を食べるのが普通だ」という表現だろう。
他方、食の現場でこの想像はしばしば裏切られる。漫画『ラーメン発見伝』で「女性向けラーメン」はけっこう出てくる。で、この場合の趣旨は決まって「女性は量が少ないことを喜ばないし、”男性と同じように”がっつり食べたい」という著者の主張である。
とはいえすでに書いた「社会的地位」を作者は当然のように踏まえていて、作中で女性受けするのは「実態としてはカロリーと量が多いラーメンだが、見た目などの工夫で一見してそう見えないラーメン」である。とはいえ、ある回では直球のこってりしたとんこつラーメンが女性に受ける描写があったりするが……
逆に男性が甘味を食べたいと言い出せずに苦しむという記事もありふれていて、食に対するある種の観念は一体何のためにあるのか甚だ不思議である。食の観念は食を自由にするのではなく、不自由にするようだ。
食べられないという話を書いたが、「食べるように強いる」が肉食主義を扱う本では話題になる。
つまり女性は甘味を”食うべき”であり、同じように男性も肉を”食うべき”である。女性に甘味を出さないのが失礼なように、男性に肉を出さないのも失礼である……
このように「儀礼としての食事」が行われ、味と無関係に社会的ステータス、男らしさや女らしさの維持のために食品が消費されるなら、まったく食事は自由でない、というお話。
将来の展望
現代思想(雑誌)内ですら、すぐに肉食が無くなるという論調の文章は少ない。なぜなら、私達は「当たり前に」肉を食べてきたので、「慣れた味」から自由になれないからである。おふくろの味に肉が入る人も多くいるだろう。
とはいえ、健康上の問題と経済的な問題(肉は高い)から、食肉は減少するだろうと私は考えている。ちょうど明治大正にコロッケから肉が抜かれ、「肉を入れたコロッケ」ことメンチカツを新たに名付けなければいけなかった歴史を思い出す。
農水省の資料でも今の肉の供給量は困難だと暗に示されている。「仮に国産のものですべてをまかなったら」という仮定で示された食事がこれで、焼肉は「14日に1回-23日に1回」とされている。すぐにオーストラリアや合衆国からの供給は途絶えないだろうが、他国が日本より高く肉を買うなどの事情があれば、日本への肉の流通量は当然減るだろう。
食料・農業・農村基本計画参考資料(食料自給力関係抜粋)
https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012_1.html
そもそもなんのために肉を食べるのかは、やはり考えてみると面白いように思う。
参考文献
文中にて。