クリスマス配信補足 宗教の暗い過去と現代の関連性
この記事は以下の配信の補足記事です。
この配信で聖書の解釈とアフリカ系アメリカ人への差別がつながっているのではないかというお話をしました。
これは田川建三が黙示録の注釈を行った時の見解です。
この本で田川建三の分析が突然5ページぐらい始まって驚いた記憶があります。内容は配信でも触れた通り、現代の「聖書では黒い肌の人が描かれているが、これは悪役である」という解釈が大航海時代の黒人奴隷問題に始まり、現代のアフリカ系アメリカ人の立場に影響を与えているのではないか、
そしてそうした現代に影響を与えている聖書学者は、こうした差別に対して罪を負っているのではないか、という指摘です。
正直な所、この解釈に私が完全に共感した訳ではありません。
私は田川ほど「自分たちの解釈が人を殺している」と言うほどには切実には感じていません。が、なるほど解釈が人を殺すこともあれば人を救うこともあるでしょうから、聖書学がなんだかんだ重要なものなんだなぁぐらいのなよなよとした立ち位置です。
さて、先述の配信で喋り損ねたのは99%の日本人にかかるお話です。
↑で書いた聖書の解釈問題は、日本の人口のわずか1%のキリスト教徒、その中でもかなり聖書に知識がある人に限られた責任問題です。
ですが、同じ問題が仏教であると言ったら、みなさんはどう思われるでしょう。
さて、ポメヒ陛下にお願いしていい感じに話したこの過去配信ですが、
どうしても避けなければいけない話題がありました。
現代で仏教が現在形で人殺しの根拠に使われているという点です。
ここの「仏教徒だけ人間として数える。仏教徒でない人間は、人間として数えない」を現代でやっているのがロヒンギャ問題というのが前掲配信で漏れた指摘なのです。
該当箇所を引用しましょう。
ということを考えると、初期仏典研究も聖書学と並んで重要なようです。こうした問題にあらかじめNoと、過去の文献にどのような記載があろうともその情報をそのまま現代に適用してはいけないし、そうした解釈がどのように間違っているか明らかにする義務がある……というのが田川建三の考えをそのまま仏典研究に当てはめた場合になるでしょう。
さて、みなさんもこうした文言はよく目にするのではないでしょうか。
こうした文章は今回の記事の半分の知識を持っていれば導き出せるお話です。つまり、キリスト教の悪行は知っているが仏教の悪行は知らない場合はこういう考えに自然となることでしょう。
しかしここまで書いたように、仏教もまた異教徒を人間と思わず、異教徒の殺人を咎めないのは過去において起きた事実です。
私がクリスマス配信でこのお話をしたかったのは平和を考える上で知識が重要だからです。
私は田川建三ほどではありませんが、キリスト教徒だからこそキリスト教の悪行は可能な限り知るようにしています。そこにどれほどの責任感を持っているかは怪しい所ですが、私がキリスト教の良さを一言でも語るなら、キリスト教に殺された人のことを忘れてはならないと思うからです。
多くの日本人は寺に墓を預けています。念仏を唱えることもあるでしょう。
ですが、今あなたはそのあなたとあなたの家族、そして多くの日本人を救っている仏教が、ビルマ(ミャンマー)で人殺しの道具にされ、ビルマの高僧はあなたが知らなかった仏典を読み上げて殺人を正当化しました。
私はあなたに行動は求めません。ですが知ってほしいと思いました。
この事実は、ロヒンギャ問題を「対岸の火事」から「遠くて近い問題」ぐらいにするでしょう。その後のことはご自由に。
そしてこういうことがあるから、田川建三は宗教のない世界を夢に見ました。宗教が単にない世界ではなく、人々が宗教を求めない世界を。
宗教はある意味で絵空事です。それを必要とする人がいなくなれば勝手に消えてなくなる存在です。ですがそんな絵空事を、過去に、そして現代において殺人の道具として、誰かを傷つける理由として利用し続ける人と、それをそのまま信じる人々がいます。
それなら、やはり田川がやったように宗教の悪を暴く以上のこともないのでしょう。
この鋭いひらめきをしたイエスは約2000年前に生まれました。
そして12月25日はイエスの誕生を記念した日です。
この日ほど、以上のお話を共有するにふさわしい日はなかったように思います。