『窮屈で自由な私の容れもの』書評|軽やかな「袋」となれ(評者:桜木紫乃)
女の体は、自身で守っていないとさまざまなものが入り込んでくる。「おふくろ」とはよく言ったものだ。「お」をつけたって袋は袋、入り口だけで出口がない。
「女」と名付けられた袋を、作者は「窮屈で自由な私の容れもの」と呼ぶ。タイトルとしてこれ以上のものはないだろうと、ラスト一行まで息を詰め読んだあとに思った。
現実の痛みは忘れても、神経から遠いところに鈍痛が残っているのは人の常。水ぼうそうのウイルスが疲れとストレスで帯状疱疹に変わるのに似ている。入れるばかり入れて追い出す機能がついていない「袋」には、鈍感しか抗う術がないのだ。
入り口しかない「袋」は風が入れば風の向くまま流されてゆき、石が入れば動かない。こんな生きものを理解するには、しっかり考察されたフィクションを読むのがいちばんだ。成熟した大人の手によって書かれた作品をひとつひとつかみ砕くようにして読んでいるうちに、「ああ、あの失敗こそが財産だった」と気づくことができる。今回、蛭田亜紗子は五編の短編で現代に生きる女を多角的に描いた。
最終話「コンバッチ!」に描かれた主人公のしなやかなつよさは、わたしが識る「北海道女」そのものだった。
夫とその両親から告げられた突然の離縁。理由が新しく現れた女の妊娠だったことで、作者と同じ土地に住むわたしは「ああ、そうだよね」とひとりうなずいてしまった。ことの善し悪しを問う前に、自身の欲望にうまい理由を付けられる親もまた、北海道の生まれだろうと想像する。
既成の感情を羽織って生きることが出来ない不器用さ、感じたままを口にすればどこか薄情に響いてしまう正直さ。内地の衣を着せるとたちまちうさんくさくなる「容れもの」を抱えて、この地の女は自らの道を探す。善し悪しなんて、言っていられない。生きることがすべて。
この国がよしとしてきた女の作法を学べなかった土地には、作者が描かんとする人間がうようよしている。ゆえに、窮屈な袋から出てしまえばこっちのもの。入れるものを自ら選べるようになったら、それが本来の「自由」である。したたかさとは、生命力だ。
袋に「お」をつけたからといって尊敬されているわけではない。読んでいるあいだずっと、つまらぬ呼び名から飛び出して軽やかな「袋」となれ、自由を得よ、と言われ続けていた。風にのって行きたいところへ行け、と。
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