見出し画像

30女の「言い寄る」論

すっかり乾いた私生活を埋めるべく、たまたま見つけた田辺聖子さんの「言い寄る」。
31歳のデザイナーが主人公であるということ、1冊だとあっさり読み切って物足りないので、手持ち無沙汰な今だからこそ、3部作というボリュームも魅力的で、「どれどれ……」と、本当に何の気なしに手に取っただけだった。

にも関わらず、だ。
当初のそんな気軽な気持ちをすっかり忘れてしまうほど、これがもう!好き!好き!こんな夢中になれる作品に出会えて本当に嬉しい。読書ってやっぱり素晴らしい!!!と手のひらをすっかり翻して寝ても覚めても、今やひとつひとつのシーンやセリフに思いを馳せてしまっている。

ページをめくるたびに、あれよあれよと世界にのめり込み、すっかり昭和40年代にタイムスリップしてしまう。50年近く前の作品なのにそれを全く感じさせない瑞々しさに満たされ、生き生きと生命力に溢れる魅力的な登場人物たち、関西弁の会話のテンポの良さ(方言による表現の幅には日本語の素晴らしさがつまっている!)、鮮やかに目に浮かぶ情景の描写……。

剛と寝た後に、水野との情事の後に【だけど本当に好きで堪らないのはゴロちゃん】と言って憚らない乃里子の、「多情な女」「淫乱」とも言われかねない奔放な、ある意味一途で純粋でもある(天真爛漫で、と形容するのは乃里子本人は好まなそうだ)振る舞いは、「そうよ、31にもなれば色々あるわいな」と、同い年の私は妙に納得してしまう。乃里子に感化されて私もこれまで通り過ぎて行った男たちを思い出のクローゼットから、両手で大事に包んで呼び戻してしまった。

乃里子の「抱かれる」のではなく、あくまでも「抱く」という能動的な求め方や、刹那的で、目の前にいる男といかにその時間を楽しく過ごすかを大事にしているところが好きだ。「帰らないで」と甘えた声で引き留めたり、しなだれかかる事はあっても、「ずっと一緒にいようね♡」なんて口が裂けても言わない。
捕まえられない、すり抜けてどこかへ行ってしまいそうな危うさが、剛のような、これまで望んだものは全て手に入れてきたようなボンボンの「俺のものにしたい」という欲を掻き立てるんでしょうね。

まあ、そんな剛はともかく、よ。
何度も何度も読み返してしまうぐらい好きなのが、淡路以来に水野と小料理屋で再会するシーン。
すでに一晩供に過ごしている関係にも関わらず、久しぶりに顔を合わせて改めて向かい合って座ることに気恥ずかしさを感じている乃里子を隣に呼び寄せ、肩に手を回して、フラついたところでさらっとキスをするという大人の戯れ!(座敷で横並びに座るしっとりとした淫靡さもまたよし)続けて「会いとうて、会いとうて、もう辛抱たまらんようになって」と呟く関西弁の可愛らしさといじらしさ!!!!!(佐々木蔵之介で脳内再生推奨。はたまた長谷川博己か。トヨエツもいいなあ〜〜)

そりゃ、五郎に振り回され、散々傷ついて自己肯定感もだだ下がりのタイミングであれば【いっぺんにこの世が明るくなってきた】となるし、【じっくり、おべんちゃらをいってくれる四十男というのは、ずっと甘美な情感である】ってなるわ!!!!!な!!!!
そんで「おあがり」と、目の前の鍋を自分のためによそってくれる。気を許した年上男に小娘のように扱われる心地よさは、自分の輪郭がぼやけてとろけていってしまいそうになるもの。(しみじみ)

本当に「言い寄りたい」五郎には肩透かしをくらい、「言い寄ってくる」剛にはこのもの寂しさは埋められない。自己憐憫が混ざった、そこはかとない孤独を感じる時に、身を寄せたくなるのは水野のような、分別があり、多くを求めず、詮索をしない、ウイットに富んだ「大人の男」なんだよなあ。いわゆる食えない男、なのかもしれないが。
とはいえ、【五郎を失ったからといって、水野に執着しているのは(私はいつも思うけど)浸かっている海水の方が温かいからといって、陸へ上ろうとしない人のようである。 どうせ、体が冷え切ってしまうのに。そのときはつめたくても、早く陸へあがった方が楽になるのに。】と、泣いたり喚いたり、感情があっちへ行ったりこっちへ行ったり慌ただしい中でも、いつの間にか冷静になって、スンと客観的に自分を見つめ続ける乃里子の聡明さに救われるのである……。そしてその絶妙なバランスがこの物語の肝であり、女性ファンを増やし続けている所以でしょうね。

読み切るころには、美味しい季節の料理と酒、さらには色恋への渇望を再確認し、私は次いつ「言い寄れる」機会があるんだろうかと、次こそは乃里子のようにより感情豊かに、生きること恋愛すること誰かと寝ることにもっと欲深く振舞っていきたいと心に決めた。

いいなと思ったら応援しよう!