リベラルに育てられ、右傾化した話
安倍さんが好きだ。
絶対に実家の中では口に出せないことを自室のパソコンでつぶやいて
いる。
自分が安倍さんを好きだと自覚したのは高校生の時だ。
僕の両親はとてつもなく左翼だ。最初はただ”戦争嫌い”程度のものだ
と思っていたらそんなことではなかった。
”日本が嫌い”なのだ。いや”日本人”が嫌いなのかもしれない。
父さんは長崎出身ということもあり、原爆資料館などで幼少期から悲
惨な過去を祖父から聞かされていたので、ある程度左に傾くのもわか
る。
しかし母さんを理解することができない。
僕の母親は帰国子女であり、食事の席ではいつも「アメリカは〜なの
に、日本は〇〇。」定型文を3分に一回は言うというウルトラマンも
びっくりなウルトラ気持ちの悪い母親だった。
外国のいいところを取り入れて日本を良くしようとか、世界は広くて こんなにも良いところがあるというような内容なら気持ちよく聞いて いられる。ただ僕の母親が最後に放つ言葉は”日本は世界で一番悪い国 だから早く沈めば良いのに”というものだった。これからこの国で生き ていこうとする5歳児の前で言うことか...狂っている。もしかし
たら僕が彼らの考えに嫌悪感を持ち始めた最初のきっかけは言葉の持
つ意味そのものではなく、ただ会話全体から漂ってくるネガティヴな
オーラそのものだったのかもしれない。
小学校に上がった。
僕はそれなりに通っている地元の小学校を楽しんでいた。けれど母親
は違った。「日本の教育は自分で考える力を育てない。」「日本の小
学校では個性は養われない。個性的であることこそが至高。」戦後日 本が目指し続けてきた”平等”と個性は相容れないのになと僕は思って いた。
小学校が大事にする平等と、家の中で大事にされている個性に挟まれ
て苦しかった。
僕が小学校 3 年生になった頃に、母さんはドイツのシュタイナー教育 に凝り始めた。
教え自体はとても価値のあり、素晴らしいものだと思う。
ただ通っている小学校の教えとは乖離しており、ただただ頭が混乱し
ていくだけだった。平等と個性、その相反する二つの考えが僕を内側
から引き裂くようだった。母さんの反日感情に拍車がかかった。
卑怯だと思った。
お金がないから公立小学校に通ってくれと言ったのは母さんの方だ。
けれど実際に通い始めたら、他にはこんな進んだ教育がある、お前の
とこはダメだと言う。
SMAP の「世界で一つだけの花」が辛かった。(SMAP は好きだよ) オンリーワンでいればいい。救われるような言葉に聞こえるが、オン
リーワンになるのは辛い。
格差なく、全ての子供に均等に機会を与える。その環境の中で意識的
にオンリーワンを目指しなさい目立ちなさいというのは苦しかった。
まず人間は生まれた時点でオンリーワンの存在だと思っていた。オン
リーワンと自ら主張して、頑張って成るものではないと思っていた。
僕はオンリーワンでなく、ワンオブゼムになりたかった。
中学校に上がった。
だがその中学校は地元神奈川の公立中学校ではなく、親に入るように
言われた東京都町田市鶴川にある自由と個性を売りにする学校だ。
ただここには自由なんてものはなかった。
その学園は外部から見たらとても進んだ学校に見えるかもしれない。
制服はないし校則もない。最低限のルールは学生同士の話し合いで決
める。学業の良し悪しに基づいて競争をさせない。
中学生にして多くの 12 歳から 15 歳の子供達が様々な色に髪を染め、
自分の着たい服で学校に通う。皆が自分自身を自由だと信じて疑わな
かったはずだ。
けれど唯一、その環境の中で自由ではないものがあった。
思想の自由だけがなかったのだ。
ディスカッションを重視し、他の知識偏重の公立中学に通う生徒たち
を自分で考える力がないと罵しった
週に2時間設けられている全体集会は、教師たちそれぞれの政治的主
張の発表会だった。彼らは欧米では教師が自分の政治的立場を生徒に
明らかにするのは普通のことだと言い、他の公立教師は自分の考えも
なく、生徒に嫌われないように自己保身に走るクズだと罵った。
彼らの主張内容は早稲田の大隈銅像の横や、法政の外堀前で叫んでい
る中核派と何ら変わらないものだった。それに後から知ったことだが
リーダー格であった社会科教師は法政の中核派崩れであった。そのよ
うな活動に従事していたから真っ当な仕事に就けず、自分と似た思想
の人間が集まる学校で働きお互いの考え方を愛であう。そのような大
人になれない大人たちの下で「自由な思想の発露」など叶うはずもな
い。
僕はただ、できるだけ目立たないようにとみんなが言っていることを
おうむ返しにしてやり過ごしていた。
「ゼンブアベノセイダ」「センソウハンタイ」「キュウジョウヲマモレ」
少しずつ透明になり死んでいった。
安保法案に関する議論が白熱していた時期であり、みんなに付いてい
く形でデモにもいった。ただ本当にその時の記憶が何もない。心が伴
っていなかったからだ。
ただ本当におかしいと思ったのは彼ら教員はデモには参加するけれど
選挙には行かないということだ。正統に民主的な方法で自らの代表を
選ぼうという努力を放棄しているのになぜ「この国はおかしい」と胸
を張って言えるのだろうか?何よりも彼ら特有の「選挙に行かない自
分がかっこいい」というような姿勢に違和感を感じていた。
安倍さんを支持しないこと、それは絶対的に自由だ。しかし自分が支
持しないから他の人も自らと同じように考えるべきだというのは傲慢
すぎないか。安倍さんが国会議員である以上彼を選んだ人がいるわけ
であり、その人たちの考えも尊重することが個性と自由を追い求める
学校の人間として、いや一人の善良な市民として当たり前のことでは
ないだろうか。しかし授業中にある教員が「安倍が公正な選挙で選ば
れたっていう声もあるけれどあいつに入れたのはたかが農村の票田の
人間だろ」と嘲笑ぎみに言い放ったのを聞いてこの人たちに民主制に
資する善き市民であることを期待することは無理だと悟った。彼らの
論理は「地方の農村の劣等市民の一票よりも、東京に住む知的な私た
ちが行うデモの方に価値があり、故に国は私たちの声をより尊重すべ
きだ」というものであるが、もし仮に、選挙ではなく少数の人間のデ
モの声の方が政治に反映されることになればそれこそ「言ったもん勝
ち」の世の中になってしまい、それは民主制の自殺ではないだろう
か。そもそも誰か一人の絶対的悪人を作り出すことは正しいのだろう
か?「あの人のせいで日本はこんなことになっているんだ」という考
え方は本当に考えなければならない問題から目をそらすだけではない
だろうか。
当たり前だがこんな環境で思想の多様性など生まれる訳が無い。生徒
も馬鹿じゃないのだからどんな言葉を言えば先生が機嫌を良くし、ど んな言葉が嫌われるのかをわかっていた。それに 12、13 の子供にと っては教師たちは社会の大人の全てだ。大学生にでもなればアルバイ トやインターンなどでいくらでも色々な大人と出会えるが、中学生に とって関わる大人というのは親と先生くらいのものだ。その”先生”と
自ら名乗る人間が言うことはほとんど真実、事実と同義だ。「そんな
考えもあるんだなあとはならない。」まだアイデンティティを構築中
の子供に一方向だけの政治的思想を聞かせることは、大学生になった
今思うと、怖いなと思う。
そんな閉ざされた環境で本物のディスカッションなどできる訳が無か った。お題は 9 条改憲に賛否であった。一人を除いてほぼ全生徒が 9 条改正反対の立場をとった。その一人は僕ではなかった。僕は目立ち
たくないから人が多い陣営にそそくさと座って黙った。その孤独に挑 んだのは T 君。彼はいつも物静かで控えめだが、たまにポツポツと呟 く言葉の節々に鋭いものを感じさせた。僕がクラスの中でこっそりと
一番頭がいいのではと思っていた人だ。彼は落ち着いて、事実と自分 の考えを分けながら理路整然と語った。けれども 34 対 1 だ。それは もうディスカッションではなく魔女裁判、吊るし上げだった。そして 議論には参加せず見守るだけというのが学校年も鉄則であるのに、担 任が積極的に反対派に与してきた。頭がおかしいのかと思った。40 を 過ぎた大人から発せられる「お前の考えは間違っている」の声。12 歳
の中学生には強すぎる言葉。1 ヶ月後に T 君は学園から消えた。自主 退学の旨が親御さんから学校にあったというのが学校の言い分だ。だ がみんなわかっていた。彼が辞めなければならない状況に追い込まれ ていたことを。学校は自ら手を下したように見せず、生徒自らの意思
という形を取るのがこの学園のやり方だ。反吐が出る。
もはやリベラルの仮面を被った全体主義、ファシズムであった。
けれどその話し合いの行き着く先はもうすでに決まっているのだ。そ
の答えにたどり着くための論理なんて問題じゃない。
もうすでに望まれている答えがあって、ディスカッションというまる
で生徒同士が話し合い、導きだしましたというような形になる。
髪型の自由、服装の自由、メイクの自由、それは根本的な不自由を隠
すための自由だった。
ただその意思を持った群衆に適応できなければ淘汰される。
かの学園は本当に多くの矛盾、欺瞞を内部に含んでいた。
そもそも憲法が自らの改正条項を明記している以上、真の護憲派であ
るならば改憲そのものには反対できないはずだ。何が何でも憲法を変
えることは許さないという考えは本当に憲法をよく読み理解している
人間の口からはでないはずだ。議論すべきなのは「憲法をどう変える
か、どこを変えてはいけないのか」であって「憲法を変えることその
ものの是非」を終始議論しているのは建設的であるとは思えない。
「本当の自由とは、その自由を破壊するものを内部に含んでこそ達成
される」
自由の敵にも自由を与える、不寛容に寛容になる、反多様性を含んだ
多様性、それがあって本当の意味で自由な学校ではないだろうか。自
分たちのお目にかかる意見にだけ自由を与える、その学園の自由ほど
都合のいいものはなかった。
また何よりもかの学園の不寛容さを象徴する出来事は「アーチャリー
入学拒否事件」であろう。
そもそも反体制という立場上、ベクトルは異なるがオウム真理教はあ
る意味で彼ら学園の思いに資するものではないだろうか(もちろん麻
原三女は決して教団を代表せず故に入学拒否の正当性は無いのだ
が)。国家を転覆させたいと常に願っている学園にとってオウム真理
教は手段こそ違えど向いている方向は同じであるはずだ。では何故入
学拒否したのだろうか。これは自分の個人的に思うところであるが
「ちょっと仲間内で火遊びをして悪ぶっていたら本物の放火魔が来ち
ゃった」ことに怖気づいただけではないかと思う。社会に対してその
学園が売りにしている寛容さをアピールできるいい機会であったろう
に反故にしてしまった。何よりも問題だと思うのがあれだけ「憲法を
守れ!」と叫んでいるのに自らは「生まれや門地による差別」を積極
的に行っている点だ。もちろん直ちに憲法の私人間効力が認められる
わけではないにしても生徒に示しがつかないのではないか。このよう
に自らは平等原則に反することを行いつつも「学園には学園のルール
がある」として部分社会の法理に逃げてしまうのは学園のご都合主義
を象徴していると思われる。
小山田圭吾さんの障害者いじめに関しても「あの学校でまさか」とい
う声もあったが、実際に通っていたものからすると「あの学校だから
こそ」だと思う。小山田さんの息子は僕の一個下の学年に所属してい
てお父さんと全く同じことを障害を持った子に対して行っていた。し
かし芸能人の子供を重要な資産として捉える学園は見て見ぬふりをし
た。学校は内部にいじめは無いと声高々に宣伝する。しかしそれは
「無いことにしている」だけだ。
自分の話に戻ると、今でも覚えている言葉がある。「いいかいここに 真っ白な布があるとしよう。3 年 4 組という大きな布だ。そして君は 真ん中の黒い染みだ。全てを台無しにする。」また他にも絶え間無く
動き続ける機械だとして君は壊れた部品であり、いつかは機械そのも
のが駄目になるというようなことも言われたことを覚えている。
何にしても実質の教育機関からの”戦力外通告”だ。
僕はそのまま地元の中学に籍を移し、透明になって 3 年生の最後の半
学期を過ごした。
高校に入った。名前さえ書けば入れる学校だった。
何もしていなかった。生きるに値しない命だと思い、お天道様が自分
にも分け隔てなく陽の光を照らしてくれることを申し訳なく思った。
学校に行って何もしないで富士そばに寄って帰る毎日だった。
ただある時に先生に褒められた。
ただ単にテストの点数がよかっただけだが僕には初めてのことだっ
た。
それまでに通っていた中学校では、テストの点数が良いことは恥ずか
しいことだった。
けれどそれはある狭い世界の常識であって、その時やっと日本の普通
に帰ってこれたと思った。
生まれて初めて大人から褒められて、これならできるかもしれないと
思った。
オンリーワンを目指す世界では生きられなかったけれど、ナンバーワ
ンを目指す世界では生きられるかもしれないと思った。
それから猛烈に勉強した。
予備校は東進ハイスクールに通い始め、それが僕にとてもハマった。
今までは学校の中で一番苦手な要素は教師という存在だった。勉強が
嫌いだったのではなくむしろ、勉強以外の生活や個人の考え方に干渉
してくることが苦手だったのだ。
しかしこの予備校はインターネットでのオンライン配信授業であった
ので、講師から何か言われたり、揉めたりすることが起こり得ない仕
組みになっていた。完全に「人間関係」を排除された教育システムは
新鮮だった。
その中で特に好きになった講師がいる。
その先生は現代文と古文を担当していて、一番人気というわけではな
いのだが、日本語を論理的に捉えていてとても聡明な先生だった。
説明の全てにロジックがあり、たまにクスッと笑える話を差し込んで
くれるその先生の授業が大好きだった。
その先生の著書をくまなく読み込み、授業を録音して歩きながら聴い
た。
そして 18 歳になり始めて選挙に行った。
家に帰ってきた僕を早々と見つけ母さんは食い気味に、一方で『私は
あなたがどこに入れたとしても気にしません』というようなことを周
到に前置きして聞いてきた。
「どこの党に入れたの?」
「自民党に入れてきたよ」
僕たち家族は、その時終わった。
高円寺に住み始めた。
荷ほどきも済み、数日たったころ近所を散策してみようと思い外にで
た。
そこで見つけたあるご飯屋さんに座っていると隣のカウンター席から
聞き覚えのある声が聞こえた。
一年間ずっと声を聞いていた東進の先生だった。
僕は彼をパソコン越しに知っているけれど、彼は僕のことを知らな
い。
けれど固まっている僕の表情を見て先生は察してくれた。
気づけば話し込んでしまって、話は僕の中学校生活にまで及んだ。
僕が学校の名前を出した時に彼が言った言葉を忘れられない。
「あの学校の生徒って良い子たちなんだよね、とても。たださ皆んな
同じ顔をしている。自分たちは個性的というけれどその個性がほぼ皆
んな怖いくらいに同じなんだ。まるで能面をつけているようだよ。良
い子たちなんだけどね」
まともな大人もいるもんだと思った。
そして学生証配布の日、受け取るための列に他の合格をした生徒たち
と並んでいた。櫻が咲いている早稲田は綺麗だった。咲いている櫻に
気がつくほどには人間になった。ふと突然、列の後ろに並んでいた子
が話しかけてきた。
「私ね、試験に受かりますようにって東郷神社にお願いに行ったの!
勝利の神様っていうじゃない。お母さんは嫌がったんだけどね...
どうしてもそうしたいと思ったら居ても立っても居られなくて。後悔
はしてないわ!だって私が選んだことだから。」
もう少しだけ、生きていようと思った。
ただ最後に、今現在いわゆる自称リベラルな家庭や、教育機関に身を
おいていて『自分ってちょっと変なんじゃないか』、『周りの人の言
っていることがわからない』と思っている子がいるとしたら言ってあ
げたい。
”君は君のままでいいんだよ”と。
笑ってしまうくらいにいかにもリベラルと自称する人たちが使ってい
そうな言葉だが使えるものは使わせてもらおう。そして何よりリベラ
ルの人たちが思想の自由を唱えるならば、保守にだってそのままでい
る権利があるべきだ。僕だちだけが考えを変えなきゃいけないなんて
ことはない。
ここまで読んで頂いて分かる通り僕は根っからの右派では無いと思う
し、そうだと自分で言うにはおこがましいほど薄っぺらい考えをして
いると思う。ただ自称リベラルな人の欺瞞にどうしても違和感を感じ
られず、それと反対の考えに身を置いて気持ちを落ち着かせてるとい
うのが一番正しいのかもしれない。
中道を行く。素晴らしいことだと思う。僕が予備校に惹かれたのもそ
の講師が「自分が綱渡りをしているとして、右か左に倒れて落ちてし
まうのは簡単だ、真ん中を歩くのが一番辛い」と言って世の中に対す
る価値判断を授業に持ち込まなかったからだ。常に真ん中を行くとい
うのは尊いことであろうし世界を冷静に捉えるためには必要なことだ
と思う。そうありたいと自分も思う。けれど出来の悪い自分は往々に
して片方に倒れってしまって、それで卑しくも生き延びてしまったこ
とを今ここに書かせて頂いている。
もちろん言いたくないのなら自分の意見を無理に言う必要なんて全く
ない。「自民党はあーだこーだ」と言っている人の横で苦々しく微笑
んでやり過ごせるのならそれでいいと思う。実際に僕はそうやって生
き延びてきた。
ただ本当に絶え間ない”綺麗な”罵詈雑言に息ができなくなったのな
ら、部屋のパソコンで少しだけ軍歌を聞いたり、こっそり靖国神社に
いったりして騙し騙しガス抜きをしてみよう。
ディスカッションなんかしなくてもいい。
デモも行かなくていい。
他の人の考えを変えようとするなんてもってのほか。
ただ一緒に、一緒に生きていよう。
ただ僕の両親や教員もきっと生まれ落ちた時から根っからの左であっ
たわけではないと思う。彼らの両親や教師そのものに嫌悪感を覚えた
のが先にあり、同じ考えになりたくないと思い左派の考えに惹かれて
いったのだと思う。
だからもしあなた方が子育てをしていて、子供にある程度どのような
考えを持った大人にしたいという思いがあるのなら、その子との接し
方で十分に可能だと思う。頭ごなしに否定したり、ある人々の悪口を
言わずあなた方を好きに、あなた方のようになりたいと思わせること
ができればその子はきっとあなた方と共感できる思想を持つように育
つと思う。
僕はもうアイデンティティも確立してしまって手遅れだから、せめて
僕が僕の考えもつようになった過程を知ってもらえればと思った。
あなた方の大好きな人たちが、自分を大好きでいれますように。
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