日記 20231109

手紙のやりとりを何人かとしていると、この秋、各土地の落葉が集まってきた。土地によって植生が異なるので、榎や椎の木、樫、楠などは、この標高の高い山奥では見ない。温暖な地域から、榎やマテバシイの枯葉が送られてくると、久しぶりに見ることができたな、と思う。
それで、今日別の本をめくったら、はらりと榎の押し葉が出てきて、二、三年前のものだろうか。そのころは秋から冬の落葉や実に執心して、いろいろな場所で見たり拾ったりして学んでいた。結局、自分にはコレクションする性向がないので、分類も保存もせず打っちゃってしまったが、心の中にはその色や形がいくらか残っている。黄色や赤、様々な色をした小判型の榎の葉、小紫の実、椿の種、真弓、それぞれの林や道、公園の景色の記憶とともに残っていて、心のときめきもやはりいくらかは残っている。

今夜、厚手のパーカーから栗の実がひとつ出てきた。どこで拾ったのか思い出せない。時を過ごした実の殻は、少し皺が寄っていた。

栗はともかく(少し山道を歩けば、山栗が見つかるし、通勤路にも田畑の斜面に栗の木が生えている)、榎や椎の葉は、今の自分から遠いところにあるものだ。人は遠いところに憧れる。
憧れにあくがれて、こんな山奥に住んでいるが、故郷や都会を慕う気持がふつふつと湧いてくる。冬の寒さが近づいてくる夜中にはなおさらだ。
住宅街という人間の檻に耐えられなくて出奔したが、その全てが厭なわけなどなく、好きだった小道や、田畑の端にある破れ家、旧家の古い木々、木を透かした光、星川の淵に集まる鴨たち。瞼の中に思い出せば、その光景が焼きついたように、涙が出るようにありありと思い出される。
人は、遠いところを恋しくおもうものなのだろう。

今の仕事や生活、不満や不安を持ちながらも、やりたいことは少しずつやれているし、あの頃住宅街の中で憧れていたこととかなり近いところにいる。仕事中、やることさえやっていて、理由もあれば、ふらふらと裏の山道に入って、山歩きをしたり畑仕事をしたり、山の景色を眺めたりもできるが、冬、職場の奥の部屋の窓からみえた庭に、いつもジョウビタキのメスが少しの間やってきていた、あの時間は忘れられない。帰りがけの川で、鴨や鷺たちを眺めていた時間も。そこにモズやカワセミが飛んできて。

矛盾はあって然るべきだろう。大坂に住んでいたころ、駅までの坂道を、花の道と呼んでいた。春から夏にかけて、香り高い桜やいろとりどりのさつきの花が咲き乱れていた。

地元にいた鴨はカルガモ、冬になればコガモやオオバン、コサギが飛来した。大きな河までいけば、運が良ければ白鳥の群れにも出会えた。浮間舟渡公園に行けば、今思い出すだけでも、ホシハジロ、キンクロハジロ、オオバン、バン、鵜などが見られた。
先日、家の裏山の中にある溜池に行ったら、マガモの家族がいた。久しぶりに鴨をみたので興奮して、おお!鴨だ!と声を上げながら駆けよってしまったので、すぐに飛んでいってしまった。山の水辺は、川というより沢なので、急流過ぎて中々水鳥に出会えない。

その代わり、長年憧れだったキセキレイは近くの沢に棲んでいるし、最近ヒワの仲間らしい群れも隣の草原で見かけた。家の屋根では、終日ジョウビタキが鳴いていて、たまに桜の枝や椿の根元にいたりする。春から夏にかけてよくみかけたホオジロは、この頃みない。

葦や草藪の中にいて、ちらちらと姿のみえる小鳥、林のどこかでさえずる鳥の鳴き声までは、まだ名前もわからない。

去年の冬、夢中になって読んだヘルマン・ヘッセ。芭蕉。西行の山家集。それから、谷崎潤一郎。あの心のときめきを求めるような半年間の夜だったような気がする。
その中でも、後鳥羽院や永福門院、あるいは能因をはじめとした歴史的には周縁に置かれている歌人たち。杜甫。蕪村。自分の中に蒔かれた種が、これから少しずつ芽を出そうとして、燻っている時間なような気もする。これから少しずつ読んで、学び、人生の中でまねびていきたいものがみえてきた。

人の勧めで読んだ、サマセット・モームの『お菓子とビール』はよかったし、『ロータスイーター』も。舟橋聖一の『田之助紅』もよかった。ただそれは余暇の楽しみとして最上のものであったが、自分の、この他ではない自分の前に、道を示してくれる、照らしてくれるものではなかった。

詩ではギュンター・グラスの、二つ三つが、自分の前に現れたが、そこに取り掛かるのはまだ先のことになりそうだ。まだまだ迂回していかなければならない。

とにかく、今はむかしの和歌にとりくむときだ。生活が自然に近づいたので、かなり実感として近くまでこれた。読んで楽しみ、生活を通過させて、詩の形をあらわしていきたい。


理想は遠くにあって思う方が、楽で幸福なのではないか? 憧れは、心の中にもっていた方が楽しいのではないか? 実際にそうして生きている人も多く、そういうあこがれをもって多くの人は、社会の中で生きているのかもしれない。やっぱり、その方が楽な気がする。
でも、自分はそれに耐えられなかったし、始めてみれば、何かに近づいていたり、少しずつできることが増えていたりする。

……この最後の段落は不要でした。このように、文章をまとめようとして、結論めいたことを言ったり、抽象的な話をすると、とてもつまらなくなるというか、誰でも与えるようなありきたりな話になってしまう。人間の考えなどみな大して変わらないのだろうか、でもやっぱり具体物に即してみれば、別々の存在だし、別の場所に、別の精神生活に生きている。