【戯曲】句点の先のメビウス。
上演時間(見込み):30分~40分ほど
キャスト:2~3人
幕
初夏、梅雨入りの頃。六畳ほどの散らかった部屋で、二人の男がちゃぶ台越しに対面し、黙々と原稿に向かっている。
庭には立派な紫陽花が植わっている。緒環が原稿に文字を書いてはくしゃっと丸め、次から次へと後ろへ投げ棄てている。それを見かねた満作が声をかけてくる。
満作「荒れてるねえ。」
緒環「売れっ子は黙れや。」
満作「おお怖い怖い。お茶でも入れてやろうか。」
緒環「飲みたいなら好きにしろよ。」
満作、冷蔵庫を開ける。中は非常に寂しく、よく冷えている。
満作「お、饅頭も怖くないかい?」
緒環「いらねえよ。あと饅頭じゃなくて大福だ。」
満作「どっちも似たようなものだろう。」
緒環「生地が違うだろうが。」
満作、冷蔵庫を開けたまま大福を食べ始める。大口を開けて、とても美味しそうに食べている。緒環は一切その様子に振り向くことはなく、頭を抱えながら原稿とにらめっこしている。
満作「お前、最近ちゃんと食べてる?」
緒環「冷蔵庫、開けっぱなしだろ。」
満作「おっと失敬。」
わざとらしく派手に冷蔵庫を閉める満作。そのデカい音に少し苛立ちを見せながら仕方なしに振り向く緒環。
満作「北風と太陽よりも冷蔵庫が勝ったな。」
緒環「喧しい。風も太陽もいねえだろうが・・・はあ。君も知っているだろう。僕は小食なんだ。」
満作「でも冷蔵庫、いつも何かしら入っていただろう。最近は特に寂しい。」
緒環「ああ、仕送りが無くなったからな。」
満作「そりゃまた、どうして。」
緒環「もういい大人なんだからまともな仕事に就けってよ。」
満作「あー、お前、ここに来てからもう三年になるもんな。」
緒環「筆を折るか、縁を切るかを迫られている。」
満作「もしくは仕事バリバリの女を捕まえるか。」
緒環「・・・ヒモになれってか!冗談じゃねえ。」
満作「ははは、これでも真面目に言ってるんだぞ。」
満作、自分の分と緒環の分の茶を入れ、座敷に座る。
緒環「余計なことを。」
満作「いいから飲みなよ。良く冷えてるぞ。」
緒環「あーあー、美味いだろうなあ、売れっ子作家の入れてくださったお茶は。」
満作「そう褒めるなよ。」
緒環「いいや、折角だから存分に褒めてやる。勝手に人の大福食いやがって。」
満作「甘味はどうせ食わないくせに。」
緒環「今は貴重な食糧なんだよ。早死にしちまえ、一発屋。」
満作「洒落にならないのよ。俺はねえ・・・。」
緒環「知らねえ!俺は売れてねえ!君は売れてる!同情もクソもあるか。」
満作「ははは、手厳しいな。」
緒環「天狗にならないのが、唯一君の良いところだな。」
満作「存在は天狗みたいなもんなんだけどねえ・・・しかし、なんとなくで書いたライトノベルが大当たりしてもねえ。」
緒環「流行に乗っかるチャンスだろう。ライトノベルなんて十代、二十代に媚びたものは読まねえが、君のは、悔しいが面白かった。」
満作「お、嬉しいね。でもあれを才能とは認めたくないよ。」
緒環「じゃあ辞退しちまえよ、新人賞。」
満作「貰えるものは貰っておく主義でな。」
緒環「はあ、いっちょまえ気取りやがって。代理で受け取りに行く僕の気持ちにもなってみろ。」
再び、二人の執筆作業が続く。雨だけが、静寂に色を付けている。
満作は順調に進んでいるが、緒環はやけに遅筆で、やはり書いては投げ棄てを繰り返している。緒環にとっては無自覚の呻き声すら聞こえてきたので、流石に声をかける満作。
満作「一体どうしたんだ。」
緒環「何が。」
満作「やけに遅筆じゃないか。いつものお前ならとっくに書き終えている頃だろう。呻き声すら聞こえた!」
緒環「呻き声?嘘をつくな。」
満作「ほんとなんだけどなあ。」
緒環「端的に言おう。テーマが悪い。」
満作「テーマ・・・お花だろう?」
緒環「ああ、僕は花ってものが大嫌いだ。」
満作「嘘だろ!好きそうな顔をしてるのに。」
緒環「それは、女々しいってことか?」
満作「女々しい作家は売れるぞ。」
緒環「それは平成までの話だ。」
満作「じゃあ令和は?」
緒環「頭の良い人間。」
満作「そりゃいつだってそうだろう。」
緒環「『頭の良い』の含みが違う。昔は信憑性ゼロだと鼻で笑われていたインターネットも、今では馬鹿にはできないとメディアや学者がキーボードを必死に叩いてる。」
満作「それは良いことじゃないのか。」
緒環「思わねえな。情報過多の時代になって、欲しいのは一つの情報だけなのに、余計なノイズまで無意識下で詰め込んでいる。そのせいで物事もはっきり言えなくなる。便利さとは裏腹に非効率な脳みその出来上がりだ。」
満作「でも、そんなこと言ったら書物だって似たようなものだろう。辞書だって一つの単語を探すときに様々な単語が目に入る。」
緒環「紙は素直だが、インターネットは意地が悪い。果てが無いからな。」
満作「ロマンじゃないか。宇宙のようだ。」
緒環「はあ、正気じゃねえよ。何事も終着点はあるべきだ。」
満作「俺は、終わりを見据えながら生きてくなんて嫌だけどね。」
緒環「君が言うと説得力あんねえ。」
緒環、お茶を一気に流し込み、冷蔵庫まで歩いていく。ちょうどお茶のボトルが空になっているのを見て、ため息をつく。水出し用のお茶パックも切らしているのに気づいてまたため息。散々な様である。
緒環「あとで買い物行ってくるか。流石にここまで何も無いとは思わなかった。」
満作「ええ、またお留守番かい。」
緒環「お前はいつだって・・・一歩でもいいから外に出れねえのか。」
満作「出れないのよね。居心地良すぎて。」
緒環「引きこもりがよ。」
満作「何を今更。」
緒環「常日頃思っていることだよ。」
水道の水を入れて、ちゃぶ台に戻ってくる緒環。鉛筆は持つものの、やはり原稿に何を書けるというわけでもなく、いちいちため息をついている。満作はそれを眺めている。
満作「それで、結局、なんで花が嫌いなんだ。」
緒環「どいつもこいつも綺麗だからだ。」
満作「逆恨みかい。」
緒環「冗談だよ。正確には、花に付随する浅知恵が大嫌いなんだ。」
満作「例えば?」
緒環「豚の饅頭なんてどうだ。」
満作「は?」
緒環「豚の饅頭。カガリビバナ、またはシクラメンのことだな。悲惨な植物だよ。豚に食われるから豚の饅頭だと。」
満作「へえ。」
緒環「この花は、お見舞いに送っちゃいけねえってよく言われたもんだ。『豚の饅頭』だから、病人に豚の餌を送るとは何事だ! とか、『シクラメン』は死と苦を連想させるから不吉だとか。その花自体には何の罪もないのに、浅知恵を掲げた人間がこの花はどうだ、この花はこうだとほざいてんだ。」
満作「やけに詳しいじゃないか。花。」
緒環「・・・昔は好きだったよ。でも今は大嫌いだ。あの紫陽花だって、花の色がコロコロ変わるから『移り気』だ『冷酷』だとか、そんな花言葉があるから贈り物に向いちゃいねえって。」
満作「でも、花に罪は無いんだろう。だったら・・・。」
緒環「いいや。僕が花について書くということは、花を何かしらの象徴として描かなければならないということだ。そんな烏滸がましいことはできねえ。」
満作「そんなこと言ったら、いずれは森羅万象全てにおいて描けなくなるぞ。」
緒環「書く必要が無くなったとしたら、とても幸せなことじゃねえか。」
満作「小説家なのに?」
緒環「小説家としては死ぬ瞬間だろうな。」
満作「お前はそうやって、ああそうだ、お前はいつもバッドエンドを描こうとする。たまには幸せになる物語を書いたって。」
緒環「いやだね。」
満作「どうして。」
緒環「僕にハッピーエンドなんて似合わねえからだよ。花も嫌いなままがいい。その方が楽だ。」
満作、緒環を見つめながらここではじめてため息をつく。
緒環「なんだよ。」
満作「いや・・・とことんひねくれているなあって。」
緒環「何を今更。」
満作「常日頃思っていることだよ。でもね、ハッピーエンドなんて似合わないだなんて、言わないでほしいな。」
緒環「そういうガラじゃねえよ。」
満作「俺は、お前にとても感謝しているんだ。文字も教えてもらったし、この世界のことも教えてくれた。俺は幸せだよ。だから、お前にも幸せになってほしい。」
緒環「・・・そんなこと言われても、何も出ないぞ。」
満作「常日頃思ってることを口にしているだけだよ。」
緒環「その思ってることを実直に口に出して言い切れる奴がどれだけいることか。」
満作「どれだけって・・・簡単なことじゃないか。」
緒環「コミュニケーション教育のためだとほざいて演劇を持ち出す時代だぞ。喜怒哀楽すら充分に表現できない、もしくは心の中に引っ込めるのが器用になった・・・それが今の時代の『頭の悪い人間』だよ。僕も含めて。」
満作はイマイチピンとこない表情でいる。緒環は外にいる紫陽花を見つめながらさらに語る。
緒環「・・・諸行無常ってことだ。万物万象は時の流れと共にその価値も意味も目まぐるしく変わる。人間も変わっていく。」
満作「でも、変わらないものだってあるはずだろう。」
緒環「無えよ。」
淡々と言い切った冷たい否定を受けて、思わず目線を落とす満作。それを見て気まずくなってしまった緒環は、煙草を取り出し咥え、マッチで火をつけようとするが、マッチが一本もなく、マッチの箱に無理やり煙草を押し込めて後ろに投げ棄てる。
緒環「いや、悪い。言い切るのは良くねえな、少なくとも僕はそう思ってるって話だ。ハッピーエンドで幕を閉じた物語でも、その物語の続きがあるとしたら、その終着点はどうせバッドエンドだ。淡々と幸せが続いたとしても、それはいつまでも続くことはない。最後には必ず悲劇が待っている、それは、お前が一番知って・・・。」
満作「それでも、俺は誰かのハッピーエンドのために生きていたい。」
緒環「それは君が損な役回りになってんだろうが。」
満作「最初は俺もそう思っていたけど、今は違う。」
緒環「・・・はあ、そんな目されちゃ何も言い返せねえよ!なんだそのにへら顔、ぶん殴っていいか?」
満作「ははは、もういじめないでおくれよ。」
緒環、ジャンパーを羽織る。
緒環「ちょっと風に当たってくる。」
満作「またそんな格好、暑くないのか?」
緒環「いちいち着替えるの面倒だからな。ついでになんか買ってくる。」
満作「お、分かった。行ってらっしゃい。気をつけてな。」
緒環、腕を出してほんの少し雨が降っていることを感じとり、傘を持って外へ出ていく。満作も立ち上がり、窓の外を眺める。
満作「・・・雨が降っている。いやあ、いつ見ても慣れないものだね。なんだっけ・・・祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ・・・。」
ちゃぶ台を井戸に見立てるようにする。
満作「天明の大飢饉。あの大厄災をなんとか乗り越えてから、数年後のことでした。小藩であった俺たちは、貧乏ながらも幸せだった日々を奪われ、それを取り戻すべく、なんとか立ち直ろうとしていました・・・。」
緒環が藩主として登場する。満作は藩主の息子である若として演じる。
藩主「役人どもは何をしているのだ!蔵に貯えをと、ワシはそのように申し付けたはずだ!」
若 「下の者を遣わしたのですが、どの庄屋も貯えが無いと・・・。」
藩主「保身に走ったな!どいつもこいつも腐りおって・・・。」
咳をする藩主と、それを労わる若。口を覆った手には、べっとりとした血がついている。
藩主「ああ、あの時と同じだ・・・本藩からの援助はまだなのか!」
若 「あちらも困窮しているようで、期待できそうにありません。」
民衆らの怒号や悲鳴、剣戟の音など、阿鼻叫喚の様相が映し出されている。
藩主「・・・嘆かわしいことだ。あの悲劇を二度と起こさぬつもりだったのに・・・知っておるか、この屋敷の裏の井戸には、沢山の赤子の魂が遺されている。口減らしのために、間引かれた子供たちだ。ワシには、どうすることもできなかった。」
若 「父上・・・。」
藩主「小さな藩だが、これでも幸せだったはずなのだ。みんな笑顔で、みんな楽しく、生きていた。なんとも儚い、栄華であった。どうしてこうなってしまったのだろうな。」
若 「父上の所為ではありませぬ。父上は、とても仁徳のある、偉大な藩主でありました。時と運が、ひたすらに悪かっただけなのです。俺はそう思っております。」
藩主「お前は本当に優しいな・・・だが、ワシは責任を取らねばならぬ。どっしりと構え、民衆の刃をこの身に受けるべきなのだ。そうせねば、ワシの心が、耐えられぬ。」
若、井戸の中へと歩いていく。
若 「・・・ならば、俺は井戸に身を投げましょう。生まれたままに行き場を無くした魂を、仏の下へ導きましょう。」
藩主「悪いな・・・もしあの世か来世で会うことが叶うなら、そうだな、美味しいお茶でも飲みかわそうではないか。」
若 「・・・ええ、ええ。父上、どうかお元気で。」
二人の下に民衆らが駆け込んでくる。屋敷も燃え始め、辺りは次第に赤く、暗くなっていく。春の夜の夢のように、そこにあったはずの小さな栄光の断片は、凶作の嵐に呑まれて消えていく。紫陽花だけが、ただ静かにそれを見守っていた。藩主は去り、井戸の中の若だけが残された。
若 「父上はきっと、自ら望んで地獄へ行った。俺は、行く宛のない魂を天へ導くだけで、どこへ行くことも叶わなかった。そしてとうとう一人になってしまった。なるほど、地縛霊の感覚だった。誰かが幸せになればと考えるばかりで、自分の幸せを何も考えていなかった。」
段々と、怪しい雰囲気になってくる。
若 「自分は何がしたかったのが、何のために生きていたかったのか、時間が経つにつれて自分のことを見失い、運命というものを呪い始めた。この世は、報われる者と報われない者の相互作用で成り立っている。誰かが死ねば、誰かが生まれる。合理的だが、あまりにも不平等だ。ハッピーエンドの裏に、バッドエンドがある。その循環で歴史は無情に膨らみ続ける。なら、俺にだって幸せというものがあって良かったはずだ!待った!ずっと待っていたんだ!」
通り過ぎる人々のシルエット。話しかけても、触っても、誰も若を振り向かない。
若 「・・・誰も、俺を見てくれなかった。いつしか井戸は解体され、変な建物になった。アパートというものらしい。俺は部屋を借りて住みつくことにしたが、そこに住もうとする人たちは俺の物音で怖がって瞬く間に去っていった。見えているわけではないらしい。ああ、苦しい。いつまでこれが続くのだろう。誰も、誰もいないのか。」
雨の日、傘を右手に、左手には目に余るほどの荷物を持ってくる緒環。居間に入ってきて新居だと喜び一息ついたところで若と目が合う。
緒環「えっ?」
若 「えっ?」
緒環「ふ、不審者!大家さん!110番!!!」
緒環が玄関先まで行って大家を連れてくる。
大家「・・・誰もいないじゃない。」
緒環「いや、いますよ!?そこに!」
大家「あのね、アナタ、きっと長旅で疲れてるのよ。今日は雨だし、ゆっくり休むといいわ。」
緒環「いや、あの、待ってください!!ねえ!!!」
大家、帰っていく。緒環に自分が認知できているのか、恐る恐る聞いてみる若。
若 「・・・俺が。見えているのかい?」
緒環「え、あ……見えて……る。」
『見えてること』に驚き、思わず笑い始め、後ずさりする緒環をわざと追いかける若。
若 「あははは、こりゃあいい!お前、俺の姿が見えるんだ!」
緒環「あ、ああああ!あれだろ!座敷童!いや、童というには大人すぎるような!?」
若 「ああ! 座敷童でいいよ!」
緒環「信じねえぞ!夢だ、夢に違いねえ!」
手を差し出されて唖然とする。
若 「満作だ。」
緒環「・・・え?」
若 「名前、満作ってんだ。お前は?」
緒環「……緒環。」
若 「緒環!いい名前だな!よろしく!」
満作が無理やり緒環の手を握ったところで回想が終了する。ちゃぶ台は元の形に戻っており、部屋の中には満作一人だけである。
満作「懐かしいなあ! あの時の緒環の顔!現実主義の奴の顔が複雑骨折したみたいになるところ! 事実は小説より奇なり! あはは……。さて、進捗はどんなもんかね。」
窓から離れて、ちゃぶ台にある緒環の原稿を読み始める満作だが、顔をしかめる。
満作「あいつ、こんなに筆圧強かったか?」
外から、激しい車のブレーキ音と鈍い衝突音が聞こえてくる。何事かと満作が窓の外を覗くと、見慣れたジャンパーが横たわっている。ぽつぽつという雨の音が秒針のようにゆっくりと時を刻んでいる。
満作「・・・命の灯火が消えかかっているのが見えた。」
緒環「はは・・・やってらんねえや。力が入らん。」
満作「久々の感覚だった。」
緒環「なるほど、死に際はこんな感覚か。」
満作「頼むから死んでくれるな。」
緒環「眠っちゃいけねえって、頭の中では分かってるのだ。」
救急車のサイレンが鳴り響く。
緒環「はは、俺には過ぎたお迎えだ。保険証、今持ってたっけ・・・。」
満作「行かないでくれ。」
緒環「これだから運命なんてクソくらえだ。」
満作「行かないでくれ。」
緒環「ああでも、花に看取られるのは悪くねえな。」
満作「行かないでくれ!」
緒環「悪いな、満作。」
緒環が暗闇の中へ消えてゆく。雨の音が段々と強くなっていく。暫く部屋には静寂と、満作の俯き顔だけが残されている。
満作「親父・・・。」
両方の頬を叩いて、立ち上がる満作。
満作「夢だったんだ。物語を書くことが。だから、もう充分だ。お前より先に一発当てちゃったしな。未練も残っていないのにずるずると現世に残る意味はない。きっと、この瞬間を待っていた。もし、来世で再び会うことが叶うなら、お茶を入れてやるよ。」
目を閉じ、合掌する。
満作「バッドエンドじゃ終わらせない。緒環の花に、どうか幸あれ!」
雨の音が、その世界を深く響かせ包み込む。いつの間にか誰もいなくなってしまった部屋を、紫陽花が見つめている。
雨の音が遠ざかり、時計の音が淡々と、気が遠くなるような間隔で、その針を進める。一週間ほど経ったころ、緒環が部屋に戻ってくる。
緒環「医者も親父も、いちいち大袈裟なんだよ!ああもう、締め切りまであと三日だ三日・・・。」
緒環、部屋に上がる。
緒環「ただいまー、冷蔵庫に適当に入れとくぞ。饅頭もあるから食いたいなら勝手に食え・・・満作?」
違和感に気づく緒環。唾を飲み込む余裕も無く、部屋のあちこちを探し始める。
緒環「おい、冗談はよせよ!満作!どこだ!満作!」
ちゃぶ台の上にある四つ折りの文書を広げる。
緒環「・・・馬鹿野郎がよ!それが君の描いたハッピーエンドだったのか!?意味が、分からねえんだよ! 誰も知らない、何も知らないこの町に来た時から、君だけが、君だけが唯一の・・・!」
文書を握ったまま、その場に座り込む。暫くの間を置いてから、緒環は深呼吸して落ち着き、外の紫陽花を見る。その顔は、この物語で初めて見せる、柔らかい表情だったかもしれない。
緒環「諸行無常の花が、今年は紫だと言ってやがる。オダマキ、早咲きのマンサクに負けちゃあいけねえよ。」
緒環、原稿と鉛筆を取り出し、執筆作業に入る。今度はくしゃくしゃに丸めて後ろへ投げ捨てるようなことも無く、順調に書いている風景が映し出されている。紫陽花だけがそれを見守っていた。
時は巡り、紫陽花がまだ花を咲かせぬ頃。相変わらず部屋は散らかっており、眼鏡をかけ始めた緒環が黙々と原稿に向かっている。携帯に着信が来るが、無視をしながら愚痴を吐いている。
緒環「ホントうるせえ編集だな!静かに書かせてくれ!ああ、集中力が切れた!」
緒環、執筆作業をいったん止めて、カレンダーを眺める。カレンダーには多くのメモ書きがあり、忙しい様子が見られる。
緒環「はあ、明日は打ち合わせか、東京まで行くのか。都会の空気は苦手なんだがな。」
ため息の調子は相変わらずである。そんな折、部屋のチャイムが鳴る。
緒環「今行きますー・・・ああ顔洗ってねえや、まあいいか。」
緒環が玄関を開けると、なんだか見たことのあるような風貌の男が立っていた。
若者「は、はじめまして!俺、緒環先生のファンで!」
緒環「お、おう・・・何用ですか?」
若者「弟子入りさせてください!」
緒環「・・・はあ!?弟子入り!?」
若者「否定しないということは、OKということですね!失礼します!」
勢いのまま、部屋に侵入してくる若者。緒環が止めようとするがバランスを崩してしまい、隙を許してしまう。
緒環「お、おい!勝手に入るな!」
若者「お茶を入れますね!」
緒環「勝手に冷蔵庫を開けるなー!」
若者「あ、そういえば、申し遅れました!俺、名前は・・・!」
終幕