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「人生は意味を持つに値しない」という話
僕は生きるということは基本的に苦しいし、瞬間的に楽しいことがあっても定常的にはマイナスだと思っている。だから悲観的かというと、それは観測者次第だと思うが僕自身はそうは思っていない。単純な事実として「人生は苦しいし、つらいよね。」と言っているのである。考察ではなく測定結果の事実の話をしていると思っている。
「人生=楽しい」は本当か?
先日、面白い本を読んだ。「シオラン」という思想家の考えをかみ砕いて解説している本で、厭世観や生きることの苦悩がメインテーマである。
この本を読んで新鮮だったのは、人生に対してネガティブな意見をまじめに議論されている点だった。世の中では、「生きる」ということ自体へのアンチテーゼを許されないように思える。「人生にネガティブなのは病んでいるからであり、健全であれば楽しく感じるはずである。」。そもそもが「人生=楽しいモノ」という前提に立っている。「人生はそもそも本当に楽しいモノのか?」という議論を許さない。これが怖い。誰が決めたのだ。
十分に議論を重ねた結果、「人生は楽しいよね」という話なら分かる。しかし端から議論を許さずに、相対する立場の意見を否定するのは不健全である。
「生きたくない」と「死にたくない」は矛盾しない。
こういう話になると必ず出てくるであろう意見が「じゃあ死ねばいいじゃん。」ということだ。まあわかる。気持ちはわかるんだけど、事はそう単純じゃない。
まず、「死ぬこと」と「死んでいること」は明確に違う。「死ぬこと」は、「生きている状態→死んでいる状態」になるスイッチの部分である。つまりは死を定常化する動詞だ。
一方、「死んでいること」は死が定常状態であることを指し、スイッチが押された後の話である。ここにスイッチを押す段階は含まれない。
一番の問題は「死ぬこと」は生きていないとできないということだ。生きている状態→死んでいる状態のスイッチを押すのは生きている状態で行うことなのである。仮に「死んでいること」を欲していたとしても、スイッチを押すとこそのものを欲しているかは別問題なのだ。
「生きる」とはただの自然現象である
水が流れることは自然現象である。地球が回っていることも自然現象である。それ自体に意味はない。意味を見出しているのは観測者の主観であり、水は流れているだけだし、地球は回っているだけだ。
人間は産まれて死ぬ。これは自然現象だ。意味はない。「意味はない」という表現も適切ではない。不定だ。Nullだ。
産まれて、死ぬ。それだけだ。それを人生と呼んでいるだけだ。
好きに生きて、好きに死ねば良いだろう。
人生は意味を持つに値しない。