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子育ての「良き瞬間」をもっと憶えておきたい

SNSをひらけば、子育ての苦しみ、母の生きづらさ、夫への憎しみが溢れている。
見ながら共感する反面、本当はもっとちいさかったはずの自分のモヤモヤや苦々しい気持ちが、不必要に大きく膨れてしまっていることに気づく。

謙虚さアピールなのか、謙遜文化なのか、
手放しで子どもを褒めたり、育児のたのしさをつぶやいたり、家族円満をネット上に投下することって、なかなか難しいと思う。なぜだろうね。
(わたしも見なきゃいいんだが)

でも、この前どうにもこうにも寝付かない我が1歳児を、一生懸命抱っこでゆすりながら思ったことは、
このあたたかくふわふわした愛おしい生き物の感触を、きっといつか私はわすれてしまうだろう。
だから忘れないうちに記録しておかなくちゃ!ということ。

いつも育児の大変さとかつらさばかりをつい口に出してしまうけれど、
あかちゃんの愛おしさって、輝きって、本当に本当に一瞬なのだ。
そのはかなさ、かけがえのなさって、光の速さのようだと思う。
子育ては2回目だけど、上の子の夜泣きのつらさなんてどんどん忘れていってる。一方で、あのぷくぷくほっぺや、ちいさな宝石みたいな歯の存在もすっかり忘れていて、最近下の子を見て、あぁ上の子にもこんな時代があったよね(涙)とありがたがっているくらいだ。
写真やビデオをいくら残したところで、人間の記憶は上書きされていく。

1歳は、抱っこしたところで、
相変わらずすとんと寝てくれるわけではないのだけれど、
眠い時、怖い時、こちらが抱っこすれば抱きついてくれて(ふり解かれる時もあるが…)無心に体重を預けてくれるその無防備さに泣きそうになる。
私という存在を心底信頼しているんだなぁ、と胸が痛い。
親が大した人間であろうとなかろうと、子どもには関係ない。
ただ純真無垢にこちらに向かってきてくれる様を見ると、ありがたい、そしてなんだか申し訳ないなと思う。

なんのくすみもなく、信じられないくらいやわらかくて、さよさよしている肌。テディベアのようなまあるいお腹。ぷりぷりのお尻と、でもくさいうんち。よたよたぺとぺと歩くのに、めっぽう速い逃げ足。でも私がついてこないことがわかると、絶対に立ち止まってこちらに戻ってくる健気さ。お風呂で湯船に顔を近づけて水を飲もうとし、止めるとバレないようにと素早く飲もうとする(バレバレ)。好きな音楽がかかると無表情でからだをゆする様をみていると、今日あった嫌なことを忘れてしまえる。言葉の意味はわからなくても、みんなが笑えば、自分も笑う、その平和さ。相手が喜ぶと自分も喜ぶ。絶対に自分に対して(私が)目が合えば笑いかかけてくれると思っている、擦れてなさ(当たり前)。信じられないくらい無垢な笑顔、口から見えるちっこいちっこい歯。こちらの頬がゆるまざるを得ない、その笑い声。話せる言葉はママ、マンマ、パパ、ジジ、ババ、ヤダ、コッチ、アッチ、クツ、ダッコ、ドウゾ、ネンネ、ワンワン、バイバーイ、くらい。

最近、あかちゃん連れの人間に対して話しかけたり、目を細めてきたりするおばさんや老人の気持ちがものすごくよくわかるようになった。
あかちゃんの存在は本当に尊いのだ、そして一瞬でいなくなってしまう。
きょうだいが多い家はすごいな、とひとごとに思っていたが、出産や産後がとても苦しかったとしても、またあかちゃんに会いたくなる気持ちが勝ってしまうのは、今ならわからなくない。
宮崎駿も、子どもは好きだけど大人は好きじゃない、みたいなことを言っていた気がするが(すごぉーく雑な言い方ですみません、でもジブリ作品は児童文学の結晶なのだ)、
本当に幼子は尊い(もちろん幼くなくても尊いのだが)!

と同時に、ガザでたくさん殺されているあかちゃんや罪のない子どものことを思うと、吐きそうな気持ちになる。
どうしてそんなことが起きてしまうのだろうか。

海のはじまりも、虎に翼も、子どもとのエピソードとなると、全部信じられないくらい泣いてしまう。
守るものができると、涙腺は弱くなるし、暴力的なものや残酷な現実から目を逸らしたくなってしまう(言葉は全然違うけど、最近オードリーの若林も似たようなこと言ってた)

毎日が混沌として、疲れて、しんどい。
でも子どもはかわいい。生まれてきてくれてよかった、産んでよかった。
ひとまずそれでいいじゃないか、と思う。

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