インターネットの奇跡
という程大袈裟なものではないというか、むしろこのタイトルの凡庸さはおまえ本当に物を書く気があるのかと自分を疑う程であるが、いやしかしあまりタイトルに凝っても読者の警戒心を煽るだけかも知れない。それともいっそ本文をすっかりタイトルに纏めてしまった方がいいのか。
いきなり話が逸れたというかまだ何の話もしていない。インターネットの奇跡。はい。
ツイッターで相互フォロワーだったのだけれど特にやり取りをするでもなかった(何せ2700人フォローしているから一人ひとりと密なやり取りをすることはできない)人が小説を書いたと4枚のキャプチャで紹介しているツイートがたまたま目に入ったので、読んだ。4枚のキャプチャで1ツイート×複数ツイートのスレッドに纏まっているのは例え漫画であっても最近はもう辿るのが億劫になってしまったけれど、小説はその分情報を圧縮できるから強い。1ツイートの4枚のキャプチャでも十分短編小説を完結させられる。
それがこれ↓
https://twitter.com/horsefromgourd/status/1125410923395465217?s=20
まあ読んでください、短いので。
読みましたか?
読みましたね。
では以下、感想文を書くので、読んでない人は読んでから読んでください。
端的に言うと感動してしまった。いやこれは非常に上手いなと思わされました。俺は単純に技術が高水準であること自体にある種のフェティシズムを感じるのだけれど、しかしやはりこの小説はそういう単純な技巧の巧拙というものを超えた部分があるのではないかと思う。既に4回くらい読んでいるけれど、何度読んでもオチでは目が潤む。これは構成の上手さというのも勿論あるけれど、それだけでは捉え切れないもの、書き手の情念や魂というようなものが確実に作用している文章なのではないかと思えた。勿論小説なので、つまりは「嘘」であるので、それが書き手の実体験であるとは限らないし、別に実体験でなくてもいい。実体験をしたところで、それを「どのように書くか」という点において読者に与え得る印象は無限のバリエーションを持つ。そんなことはどうでもいい。大事なのは俺が「この文章には魂が宿っている」と感じられたことで、俺はその「魂」に触発されて今こんな文章を書いてしまっている。
この小説では「あの人」については驚く程情報が少ない。「あの人」は死んでいて、棺に入れられている。「僕」はその葬儀に参列しているけれど、その大半を「なんと呼べば良いのかわからない時間」として過ごす。ラストの直前に、唐突に「あの人」は「僕」の恋人であったことが明かされる。しかし、二人の関係はもう冷めていて、お互いに惰性で付き合っているだけだった、という印象が「あの人」の母に向けて「僕」の口から語られる。
が、最後の数行で事態は一変する。「僕」の声はかすれ、「僕」は以前祖母が認知症の祖父を看取る際に花を棺に入れる時にだけ「涙をぽろぽろ流し」ていたことを思い出す。そして「これはその涙だと思った」と締める。
「僕」が直接「涙を流す」描写を一切せずに、しかし感情が決壊して落涙するということを示すのが見事だと思ったし、そういった即物的で直接的な描写が省かれていればこそ読者は自分の頭で状況を捉えようとし、だからこそ状況に臨場感を感じられ、感情に共感できるのだと思う。「あの人」は言うなればそうした感情のトリガーとして明確に役割を与えられているように見えるが、しかし「僕」の口から語られる印象の中で、彼女は確かに生きていたように思えた。その語り口が、単に「あの人」を道具化、手段化してしまうことなく、実際に生き、死んだ人々のドラマとしての奥行きと説得力をもたらしていたのだと思う。手放しで称賛してしまいたいこういう作品に偶然出会えるのは、やっぱりインターネットの強みだと思う。負けない作品を書きたい。
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