黒く染まったタイムラインを見て考えたこと
#BleckLivesMatter や #BlackOutTuesday というハッシュタグがあらゆるSNSを埋め尽くしてから早くも1ヶ月が経とうとしている。
一部の人を除いて熱が冷めたのではないか?
私はもともと、この一過性のあるイベント感に多少なりともモヤモヤしていた。
「普段からこんなこと言う人だったっけ?」
「この人いつか冗談で差別的な発言してたのに…」
もちろん、普段から真面目に考えていても発信しない人もたくさんいるだろうし、普段から真面目に考えているいないに関係なく、誰でも人権について発言する権利があるし、発言すべきだと思う。
私が不快感を抱いたのはおそらく、黒人差別以外の人種差別には何も声を上げない人、いや差別を助長している人たちが、平気で、黒人の権利について投稿していることが許せなかったからだ。
この不快感は、前にも経験した。
2015年11月13日、パリでISISによる同時多発テロが起きた。犠牲になった人の数は、130名近く。「花の都パリ」で無差別、残酷なテロが起きたのだから、ニュースでは速報として報道され、テロが起きてからしばらくは新聞の1面を飾っていた。
賑わせたのは、報道界隈だけではない。皆さんも覚えているだろうか…Facebookでは、テロの犠牲者への追悼の気持ちを表して、自身のプロフィール写真をフランス国旗のように3色に染める動きが広がった。#PrayforParis もトレンド入りし、SNSはパリでのテロ一色になった。
皆がこのように動いたのはおそらく「あのパリで?」という驚きと恐怖、知人友人ら愛する人たちが傷ついた悲しみからであろう。
しかし、そのとき、ISISに侵略されていた国地域では、一体何人の人々が犠牲になっていただろう?どれくらいの民家が破壊され、広場が戦場と化し、平和な日常が失われていたのだろうか?
ISISが侵攻していたシリアやイラクなどの周辺地域で、いくら空爆が起きようと、子どもが犠牲になっていようとニュースの速報では見たことがなかったし、新聞もほとんどが国際面でしか取り上げていなかった。
そんな中、なぜパリでテロが起きた瞬間、国際社会は一丸となってパリの人々への追悼の念を表したのだろうか?人命の重さって住む場所によって変わるのか?
そんな怒りのようなモヤモヤ感が、BLMでも再発した。
日本でも、外国人差別は存在する。今でこそ、あからさまな差別発言はタブーとして認識されているものの、私たちの無意識の中に存在する。
日本国籍以外の容疑者は、国籍か「外国籍」という形容詞が付いて報道されるし、マナーが悪い人が外国籍だと「やっぱりね」と納得する人が多い。犯罪白書には、「外国人犯罪率」の項目がある。それに、見た目が日本人ではないことで職務質問されるたびに悔しさを感じると、語るパキスタン出身の男性のインタビュー記事も読んだことがある。こんな差別国に住んでいて、普段は何も言わないのに、ハリウッドセレブがBLMやってるから参加したのか?と皮肉の一つも言いたくなったのだ。
しかし、黒人差別はこれらの差別とは話が違うという意見もあり、ますますよくわからなくなってしまった。
“American Crime History- The People vs. O.J. Simpson”で、”nigger”の発言があるたびに顔をしかめたり不快感を示す登場人物らを見て、アメリカで暮らしたことのある人にしかわからない肌感覚の違いを感じた。また、多くのSNSで見かけた「黒人の子どもが成長するまでに覚えることリスト」を見て、差別が染み込んだ社会で生きる大変さに心が痛んだ。
奴隷制に関する映画を見て、黒人奴隷たちの惨すぎる扱いに吐き気がし、憎しみの深さを理解できる気がした。
アパルトヘイトが政策として黙認され、KKKという集団に襲われる恐怖の中生きる社会…確かに、黒人差別は歴史の授業でも重く扱われるほど、根が深く違う性質の問題なのかもしれない。
ゆえに、“Black lives matter”を”All lives matter”に言い換えるのは、本当の被害を矮小化している、という意見もなるほどと思う。
でも、差別で苦しむ目の前の人は見ないふりをするのはそれよりも間違っているとも思う。
もっと言えば、「見ないふり」ではなく「知らない」だけだとしたら、報道しないメディアにも責任があるのだろうし、社会問題を報道させない社会の責任でもある。
ただ、私は、日本人で、幸いにも外国で人種差別された経験がないから、踏み込んだ議論も、共感を呼ぶ主張もできないが、私のように感じている人も一定数いるのだとしたら、こういう意見の交換ももっと盛んにできたらいいのに、と思う。
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