人生会議(アドバンス・ケア・プランニング)のこと その2

ACPは「長患いや老化によるおとろえで回復が難しくなったときにそなえ、これからの治療と療養生活についてあらかじめ話し合うプロセス」だ。LWやADを生かし切れなかった反省から生まれたもので、関係者が参加する対話を通じて、本人の意思と最善の利益を護り「続ける」ことが目的。

もし、意識不明などで本人の最終的な意思を確認できないときであっても、過去に作成したLWやADに縛られるのではなく、対話をくり返してきたなかで生まれる「この人なら、今、こういう選択をするだろう」という共通の認識に沿って様々な選択を行っていくのだ。

「関係者」を考えてみると、家族と一緒に暮らしている人は家族だろうし、お一人さまは信頼できる友人、もしかすると代理人を依頼する弁護士かもしれない。長患いをしている方は家族や友人のほかに、主治医や看護師、介護保険を利用しているならケアマネージャーやヘルパーさんも「関係者」の対象だ。

もちろん、そんな話はしたくない! という人だっている。「もしものとき」を考えること自体を嫌うのは人間として当たり前の感覚だ。たとえ入退院をくり返して、周囲や本人が衰えをはっきりと自覚していたとしてもだ。

「もしものとき」を考えられるのはいつ?

本来、ACPは自分の意思を明確に言葉として表現できる「元気なうち」に始めるのが理想だという。ただ、元気なときに「もしも」を真剣に自分ごととして考えられる人はまず、いない。そうかといって、長患いで入退院を繰り返し、自分も周りも残された時間は少ないと感じていたとしても、どこかで「まだ大丈夫だ」と希望を持っている。

そんなときに「いよいよとなったら、どうする?」なんて話ができるだろうか。日頃「ぽっくり逝きたい」「がんになっても治療をしない」と強気に口にする人だって、本当にそのときが来たらどういう態度に出るのか、自分自身でもわかってはいないのだ。家族から切り出そうにも、よほどの覚悟がいる。

ACPはときに、致命的なほど心身を傷つける

だからといって医者や遠い親戚など第三者が「最後通牒」のようにACPを押しつけることは、ときにそれ自体が致命的になるほど心身を傷つける。

がんをいくつも抱えながら治療と仕事を両立させてきた人が体力の衰えを感じ始めたとき、「どこで死にたい?」という善意の第三者の一言で生きる気力を失ってしまうこともある。行政がタレントを使ってまでACP(しかも訴求するポイントがずれている)を普及させることに嫌悪感を覚えるのは、善意の第三者があちこちで生まれそうだからだ。

ACPに一般化できる「理想」のタイミングなんて無いのだろう。第一、進行形のプランニングなのだから、話し合いが一度きりで終わるわけでもない。日々の「家はいいねぇ」「あんたに迷惑はかけたくないのよ」「またまたぁ」という一言ひとことから、ゆっくり進めていくだけなのだ。

どうしてわざわざ「ACP」なんてものが必要なのだろう? それは現代人の8割以上が病院、もしくは特別養護老人ホームやケアハウスなどで亡くなるからだ。

(その3に続く)

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