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銃乱射事件はアメリカの自業自得?暗い教室で息を潜めた40分

アメリカの大学で教えて 12年になるが、今週、初めて授業中にシェルターインプレイス(shelter in place)のアラートを経験した。

シェルターインプレイスとは、大学内に銃を持った不審者がいるか、既に学内で銃乱射が起きているかもしれないので、今いる場所から動かず身を潜めろという合図だ。 

詳しい情報を与えられないまま、ドアにカギを掛け、電気を消し、ブラインドを下ろし、入り口から見えないコーナーの机の下に生徒と身を潜めること、40分。

子どもの頃から学校でシェルターインプレイスの訓練を受けている学生は、本当に見事だった。物音ひとつ立てず、ひそひそ話もクスクス笑いもせず、完全な静寂を保っている。アメリカで子ども時代を過ごすということはこういうことなのだ、と改めて胸が痛む。

夕方4時半開始の3時間授業だったが、アラートが鳴ったのが4時50分頃。6月にも一度、学内でシェルターインプレイスのアラートが鳴ったことがあったが、その時は、翌朝9時までアラートが継続したので(夏休み中で私は大学にいなかった)、今回も、20分、30分と経過するごとに、夜を跨いだらどうしよう、トイレにも行けないのかな、など、もしかしたら誰かの命が脅かされているかもしれないという状況なのに、人間の思考の及ぶ範囲の狭さに我ながら呆れる。でも、これくらいの思考範囲だから冷静に生きる判断ができるのだ、と納得もする。

40分後にアラートが解除されたので、普通に授業を再開しようとしたら、それまで冷静だった学生たちに、泣きそうな顔で帰りたい、と懇願された。

そうだよね、まだ19,20歳の子たちなのだ、アラートは解除されたが一体どこでなにがあったのか詳細は知らされておらず、得体のしれない恐怖が消えたわけではない。一刻も早く家に帰りたい気持ちもわかる。こんな時に授業をしても、きっとなにも頭に入らないだろうと学生を帰した。

アメリカでは1999年のコロンバイン・ハイスクールでの銃乱射事件以来、少なくとも200人の子どもたちが学校で起きた銃乱射事件で命を落としている。2024年だけでも、9月までに少なくとも50の学校で銃撃事件があり、うち13件が大学、37件が幼小中高で起き、24人が死亡、66人が怪我を負った。どの先進国を見ても、これほどの銃乱射事件が起きている国は他にない。

こういうことを書くと、アメリカ怖い!って思われるかもしれないけれど、アメリカにはアメリカ特有の危険が存在してはいるが、アメリカ人やアメリカ社会をマルっとひとまとめに得体の知れない怖いものとして小さな箱に入れて処理するのは、どうか留まってくださるといいな、と読み手の感想をコントロールしようとする不遜行為ではあるが、切に願います。

多くのアメリカ人は他人のことを傷つけようとは微塵も思わない本当に善良な市民だから。

アメリカ特有の危険として無視しては通れない、銃社会。 こと銃規制問題に関しては、日本育ちの私からするとなんだかよく分からない感覚もある。
なぜ銃規制がそんなに難しいのか。今回は、ちょっと長くなるけど、このことをまとめてみる。どうかお付き合いくださる方はお付き合いください。(最後に引用文献も載せているので、実際より更に長く見えております)

銃規制が難しいのは、一方では銃こそが安全を脅かすものだと信じている人がいるのに対して、もう一方では、銃こそが安全を守る方法だと信じている人がいるから。

2022年5月24日、テキサスにある人口2万人たらずの小さな田舎町の小学校であった銃乱射事件は記憶にある方も多いのではないでしょうか。犠牲になったのは小学4年生の19人の子どもたちと2人の先生(44才と48才の女性)。先生は、子どもたちを腕でかくまうようにして亡くなっていたという。

このような銃乱射事件のニュースを日本から見ると、「まただよ、アメリカ怖いねー。」という感想になるのではないでしょうか。そしてなんとなく、なんとなーく、アメリカの自業自得だよな、というような感情がどこか遠くの方で旗を振るのでは。自分たちで銃を規制しない社会作ってるんでしょ。誰もが簡単に銃を買えりゃ、銃乱射事件だって起こるよね、という。

実際、テキサスでは18歳から自由に銃を買うことができる。
そしてその事件で銃乱射をした18歳の男性は誕生日後すぐにセミオートマチック銃を買ったという。

でも、多くの国に存在するバカバカしいシステムがそうであるように、アメリカでも、国民の全てが諸手を挙げて銃社会を歓迎しているわけではない。

むしろ多くの人が銃規制を望んでいるし、それを推進しようとする政治家を選んでいる(選ぼうとしている)。が、アメリカの根深い選挙問題(投票区画の線引きを変えるgerrymandering問題や、マイノリティーの人々が投票しにくい投票登録問題など)によって、巷の声が政治に反映されにくい問題があっての今のこの社会。国民の声が政治に反映されにくいのは、日本も似ているかもしれない。

選挙問題に限らず、己の利益のために銃規制に反対するアメリカライフル協会(NRA)と、そのNRAから利益を得ている政治家たちという図式もあり(これが一番サイコ)、サンディーフック小学校で26人が犠牲になった銃乱射事件後に、少なくとも銃を購入する際のバックグランドチェック(犯罪履歴や精神病歴チェック)を義務付ける法律をオバマ政権が通そうとした際に、共和党のフィルバスター(議事妨害)に合い断念したという過去もある。

面白いのは、銃保有支持者数が多くNRAと結びつきの強い州では、銃乱射事件後に、規制とは真逆の方向へ突っ走る傾向があり、銃を買ったり持ち歩いたりしやすくなる法案ができる、ということ。これは、銃こそが安全を守る最善の策だという信念に則っているわけなんだけど。交通事故多発の交差点から、信号を取り除くみたいな行為にも見える。

例えばテキサスでは、2017年に26人が犠牲になった教会銃乱射事件後に、銃帯同許可証または使用免許なしで誰でも銃を自由に持ち歩いてよい法案が制定されている。そして先の小学校乱射事件である。

学校へ送り出した我が子が、銃に撃たれて帰ってこない。
その知らせを聞いた時の、胸を貫くその痛み。想像するだけで苦しい。

銃乱射事件が起こるたび、銃規制を叫ぶ人とさらなる銃保有を叫ぶ人とでメディアや政治はごった返すわけだけど、その相反する信念が、どうにも折り合いをつけられない。

さらには、教師に銃を持たせろ論が活発に叫ばれたりする始末。学校という場で、教師が銃を持つという環境が子どもの学びに及ぼす影響について鑑みれば、絶対にそれは避けるべきだと分かるのに、そういうとんでもないことを言い出す人々のその理由も「恐れ」に根があり、だからこそ、冷静な議論が難しい。だって怖いんだもんね。

怖がる人間ほど、話を聞けないものはない。敵が来ると恐れて、穴に向かって突進するプレイリードッグに、「ちょっと待って、まず話を聞いて!」と言うのと同じで、ドドドっと穴の中に突進されて終わるっちゅう話。しかもプレーリードッグって、仲間同士で殺し合うところも人間に似てる。

実際、銃保有者ほど、この世界が危険なところだという漠然とした恐怖心と不信感があり(引用1)、銃を持たないグループより銃乱射事件のおこる可能性を危惧している傾向にある(引用2)。興味深いのは、彼らが必ずしも実際に恐怖体験をしたわけではないということ(引用3)。漠然とした理由のない恐怖心ほど怖いものってないよね。

何か悪いことが起こるかもしれないという恐怖が先に存在しているため、悪いニュースに注目しがちになり、この世界めちゃくちゃ危険やん、という印象を更に持ってしまう。なのでいつどこで最悪の事態が自分にも起こるか分からないと怖くなり、ぐるぐると恐怖のループを自己強化しながら回ってしまう(引用4)。

さらに、普段から安全な地域に住む人ほど、危険といわれる地域に住む人より、この恐怖ループに陥りやすいという。

これは、ニューヨークに住んでいてもよく感じる。富裕層の多い安全な地域に住む人ほど、漠然とセントラルパークより北側にあるハーレムや、我が家のあるワシントンハイツのエリアをなんだか怖そう、危険そうだと恐れている。知らない、が、怖いになる。

それに加えて、銃保有支持者が唱えるのが、「銃に罪はない!銃を使って殺すやつが悪いんだ!」という理論。(まぁそれはそうなんだけどさ。)たまたまクレイジーな人間が間違ったことをしたのが問題であって、それで銃を規制しろというバカな話はない、というわけだ。

とはいえ、精神的に不安定になった人やサイコパス的な人間はアメリカ以外の国にも存在しているのに、アメリカほど多くの犠牲者が一度の事件で出てくる国もないし、これほど銃乱射事件のある国もない。そして、その最たる要因は、銃へのアクセスの良さにあることも分かっている。

銃規制に反対する人々が拠り所にしているもう一つの柱が、憲法第二条の保証する権利「the right of the people to keep and bear arms shall not be infringed」(自己の武器を保有し携帯する権利の保障。*これは政府に抵抗するために義勇軍を組織した、という当時の時代背景がある)
これ1787年に書かれた法律である。江戸時代だよ。

銃規制法案を反対する保守派の裁判官などは、いまだに、革命軍のヒーローたちに敬意を示す意味でも、第二条は守られなければいけない、と判決でのたまうのだから、うーん、もっと違う方法で敬意しめせませんかね?と首をかしげてしまう。

なんにしろ、その不思議な愛国心と銃に対するいびつな愛と、その根底にある恐れが、銃支持者の背景にあって、それを煽る・利用するNRAのような団体やそこから利益を得る政治家もいて、リングの上は混戦極まりない状況。

また余談だが、人種差別的な人ほど銃の保持率が高いという(引用5)。これは漠然とした恐怖の裏に、得体のしれない理解のできない他文化・人種への恐れと嫌悪が存在しているためだ。

だから驚くことに、60年代の黒人市民権運動の時は、マルコムXなどが銃を用いて抗議していたこともあり、現在の銃規制反対派の保守派の人々は、銃規制を大いにサポートしていたという。黒人が銃を持つと犯罪者、白人が銃を持つと愛国者というへんちくりんな偏見もあるのだから、人間ってほんと面倒である。(引用6)

銃こそが安全を守る方法である論に関しては、それが誤っていることは何年にも渡って証明されてきた。銃の保有数が増えると、銃を使った殺人や自殺のケースが増えるのだ(引用7)。

しかも銃を保持した人が赤の他人を撃つ事件だけではなく、家庭内でカッとしたパートナーに殺されるケースなど家庭内暴力と関連した殺人が銃の保持と比例して上がる(特に女性&マイノリティに被害が多い)。良いことないじゃん。

ではなぜ人々はそれでも銃こそが安全を守る唯一で最善の方法であると信じるのか?

これ、実は単なる知識不足ではなく、正しい情報を聞いても、それより身近な経験則や感情を信じてしまう人間の愚かさにある(引用8)。自分の周りにはそんなやつはいなかった、自分や自分の家族がそんなことをするわけない。だから自分だけは例外だと思う。

行動の結果どうなるかを教えることで行動の変化を促そうとする方法では、どうも人々の行動は変えられない。特に恐怖心がある場合、すごく難しい。

行動の結果を教えるだけではなく、その行動の裏にある心理を理解させること(怖いと思ってしまう心理はどこに起因してるのか)や、具体的な行動のオプションを練習した方が効果的なんだとか。これはタバコ、不健康な食生活、車の運転中に携帯をいじる、ワクチンを拒絶する行為などでも実証されている。

最後にもう一つ、「銃こそが人の安全を守るのだ論」に関して、先述のテキサスの小学校銃乱射事件では、銃を持ち防弾チョッキを身に付けた警官が、犯人が子どもたちと立てこもる教室の外に待機したまま45分が経過していたということが後の調査で明らかになった。警官の犠牲者が出ることを恐れての決断だったという。

警察署が後に開示したタイムラインの一部:
11時35分:犯人が学校に侵入し銃乱射開始。
12時3分:犯人がいる二つ続きになった教室の一室から女の子が911へ電話。ささやき声でどの教室にいるか、何人かが既に死んでることを伝えて、警察を送ってと言う。その時点で既に19人の警官が廊下に待機していたが、教室には入らず。
12時13分:再び同じ女の子が911コール。警官は教室の外で待機継続。
12時16分:同じ女の子が再び911にかける。8~9人の生徒がまだ生きていると伝える。
12時19分:別の子どもが二つの教室のもう一つから911にかけるが、近くにいた他の子どもから電話を切るように言われて電話は切られた。
12時21分:犯人が再び発砲を始める。
12時36分:また最初の数回と同じ女の子が911に掛ける。静かにするように言われたと伝え、ドアに向かって犯人が撃ったといった。お願い、警察官を送ってと懇願する。
12時47分:また同じ女の子が911に掛ける。警察官を送ってと頼む。
12時50分:警官が教室へと突入。

丸腰の子どもたちが助けを求めているのに、銃を持った警官が45分も入れなかったのだ。銃こそが人の安全を守る唯一で最善の策じゃなかったのかよ。


追:違うモラルを信じる相手と歩み寄るには、というトピックを取り上げたポッドキャストのエピソードをここに貼っておきます。ご参考まで。

参考論文: