インスピレーションのコミュニティ(3/4)
そこであらためてロシア民謡を見直してみよう。ロシアでは民謡の、民衆レベルにおける浸透は実に大したものである。ロシア民謡は合唱が主体となっているが、これは皆で歌うのを楽しむロシア人の気質によるところが大きい。
先月の某局テレビでは、ボルガ河畔の都ボルゴグラードにおける、農村で歌われるロシア民謡が取材されていたようだが、そこに見られるように彼らロシア人は結婚式やピクニックなど、人の集まる様々な機会に皆で民謡を歌うことを楽しんでいる。恋の歌もあれば、自然の歌、生活の苦難の歌、祖国を思う歌などもある。ロシア人は民謡に対してわれわれよりも日常的に、てらいなく気さくに、親密に接している。人が集まるときには歌が入るから、歌に接する機会が多い分、歌が板についており、さまざまな歌や新しい歌も生まれやすい。
ロシア民謡と思われている『カチューシャ』や『赤いサラファン』などの人気曲は、実際は今世紀のソヴィエト時代に生まれた「ソヴィエト歌曲」であるし、それでなくとも現に、広大なロシアでは、今、この瞬間にも、民謡が作者の民俗固有のアイデンティティーに対する関心を反映しつつ、同時に新しい時代の色彩をも取り入れて次々と造られている。
だから一見、伝統的で因循姑息で確固不変であるように見えるロシア民謡は、実際にはかなり可変的で動的、かつ生成的なものなのである。コミュニティーの中でコミュニケーションをとりもつ機能を果たす民謡への需要が、民謡の創出と、その創造的な活用を可能にしたといってよいだろう。今までに述べたような大衆的かつ創造的という意味での絶え間ない生成によって、ロシア民謡は溌剌とした生命力を獲得しているのである。
ロシア民謡の好きな者の一人として、筆者も創造的にロシア民謡の生成に参加できればいいと思う。別に新しい歌をつくる、という訳ではないが、既存の曲をより表情豊かに、オリジナリティを含んだやり方で歌うことに誘惑を感じている。しかし、また同時に、ロシア民謡に見られる広大で底の深い調子を無視しては、本当のロシア民謡とは言えない、と言うより、認めてもらえそうにない。もちろん完璧を図ることなどは望むべくもないのだし、それは多分幻想でしかないだろう。
ロシアの民衆の歌の魂に迫るにはどうすればいいのだろう。私は悩んだ末に思いついた。ここはひとつ、あらゆる音楽のルーツであったはずの、自然の音に立ち返ってみるべきなのかもしれない、と。とくにロシア独特の風景が舞台要素となっている曲を習得する場合には、もっと基礎的な音階の区別が生まれる前の原始的なリズムに対する関心を持ってもよいのではないか。人間のせせこましい生活感覚とそのリズムの束縛を脱して、自然の悠久なリズムに身を委ねてみる。脈動する原石としてのロシア風土のリズムに密着して同調し、その流れのままに浮かびゆく感情と、その起伏に没入して、やがて歌詞をそこにのせて次第に調和させる。歌詞と約束的な旋律とに翻訳される以前の、自然の原始的なイメージをまず感得するのである。
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