映画版『鹿の王』の変更点まとめと考察
宇宮7号と言います。世界史の解説動画を作ったりもしますが、最近は専ら上橋菜穂子ファン活動をおこなっています。
今回は、映画版の『鹿の王』の話をします。
映画版は、原作とかなり設定が異なります。
ぼんやりと見ていると原作と混ざってしまいそうなので、この度あらためて映画と原作の相違点を整理し、映画版の意図を再解釈することにしました。
「変更された点」と題してはいますが、かなり違うので、もはや変更されていない点を探す方が簡単なくらいです。ただ今回の目的は、映画を言語化して解釈することですので、網羅的というよりは体系的な話になる気がします。
はじめに
最初に、メディアミックスに対する態度を述べます。
私はどちらかと言えばかなり原作厨寄りで、メディアミックスはあくまで二次的副産物として(言葉を選ばず言えば金と手間のかかった二次創作として)認識しています。
ただし、メディアミックスは問答無用で嫌うわけではありません。原作を元に再解釈されたその作品の意図を、できるだけ理解したいと思っています。
『鹿の王』映画に関して言えば、私の原作解釈とは異なる点が多かったのですが、しかしこの記事は、映画批判の記事ではありません。
私は一介のファンですので、自身の解釈と違うからと言って、それを否定する権限はないと考えており、故にこれは、何が自身の解釈と異なり、何が共通しているのか、言語化するための記事なのです。
原作の方が好きだった方、映画を見てよくわからないと感じてしまった方、映画と原作の違いを知りたい方、映画を十分に楽しんだのに世間的な評価が芳しくないことを知ってしまった方、それぞれのもやもやした気持ちに、言葉と納得を与えることができれば幸いです。
単純化して歴史を語ること
映画版『鹿の王』は、“子供向けに語った歴史”によく似ている。
複雑な歴史を小学生や中学生に語るときに、勢力図を単純化し、普遍的な感情に訴えかける説明をすることがある。
例えば、「明智光秀は織田信長が暴君すぎて恨んでたから裏切ったんだよ」とか、「フランス革命は王様の横暴に普通の人が立ち上がったんだよ」みたいな説明である。
実際のところ、明智光秀の怨恨説は否定されつつあり、おそらく感情でなく政治的な理由から謀反を起こしたのだろうが、はじめて歴史に触れる小学生へ説明する際に、感情から入ってしまうのも仕方がない。またフランス革命の主体はブルジョワジー(金持ち)であり、身分制議会に対する不満から革命は始まったため、当初は王政の打倒までは意図されていなかったのだが、そんな複雑な内容を、中学歴史で語ることはできない。
小学生向けの物語で、あるいは中学校の教室で、簡略化した歴史が語られるのは悪いことではなく、語ったそれが偽の歴史だということにもならない。事実は人の数だけ解釈を持つ。人によって受け取れる情報量は異なる。対象に合わせて限られた時間(紙面)のなかで事実をどのように語るかという違いなのだ。
映画は、まさに限られた時間の中で、映画の幅広い視聴者層に合わせて、物語をわかりやすく伝えなければならない。
そこが、この映画が初学者向けの歴史に似ている点であり、おそらく最も製作陣が苦労された点なのではなかろうか。
そも、『鹿の王』は非常に重厚な物語である。「難解すぎて諦めた」という声も多い。能動的に本を読む層ですら難解と感じる人がいるのに、本を読まない層がそのまま理解できようはずもない。映画という媒体にした時点で、単純化は必須である。
単純化の工夫
映画では、物語を簡単にするために、さまざまな工夫がなされている。
①登場人物の所属を明かさず構造を簡略化する
②人物や勢力を省略して関係を整理する
③善悪を固定して視線を誘導する
④感情に訴えて共感と納得を導く。
①登場人物の所属を明かさず構造を簡略化する
例えばこれはホッサル、サエ、オーファン等に見られる特徴である。
オタワル人、モルファ、火馬の民に属する彼らの出自を説明せず、「高名な医者」、「アカファ王配下の跡追い」、「反乱民」程度の描き方に留めている。
②人物や勢力を省略して関係を整理する
これは王幡侯、谺主、オタワル関連に現れている。
アカファ領主である王幡侯を削り、迂多瑠と与多瑠を皇帝の息子とすることで東乎瑠勢力を整理している。
またリムエッル、ミラルをはじめとするオタワル人や、奥と奥仕え、谺主を削ることで、オタワルやヨミダの森に関連する内容をテーマごと削っている。
③善悪を固定して視線を誘導する
これはオーファンや黒狼熱の病素について言えることである。
黒幕を削り、オーファン達を悪にすることでヴァンとホッサルを同じ陣営にまとめている。その裏に蠢く思惑を省略し、事件の解決=対立の解決と理解させている。
また病素との共生を、病素への対抗という理解されやすいテーマに変更している。
④感情に訴えて共感と納得を導く
これはヴァンとユナとの関係や、病と戦うホッサルに現れる。
血のつながらない娘に対して芽生えていく家族愛は、原作においては沢山の軸のひとつに過ぎないが、それを主題にすることで普遍的な愛への共感を起こそうとしている。
またホッサルの病に対する理解と態度のうち、態度の方を大きく取り上げることで、生きることへの肯定を大きく打ち出している。
挙げていけばキリがないのだが、それらの思惑が成功したと感じるところもあれば、さすがに無茶だったのではないかと感じるところもある。
ここからは、改変箇所を具体的に見ていこう。
⒈アカファと東乎瑠の変更
まずは最も大きな対立構造である、アカファと東乎瑠について確認する。
大枠は原作の通りだが、簡略化のための変更が多数見られる。
アカファ
・アカファ地方
原作:物語の舞台。東乎瑠帝国の属州。
250年前は古オタワル王国の支配下にあったが、オタワルの王に統治権をゆずられ、アカファ王国となった。
東から拡大した東乎瑠に段階的に併合され、現在は領主となった王幡侯が支配している。
映画:物語の舞台。数十年前、東乎瑠軍に蹂躙されたが、黒狼熱が流行ったために東乎瑠軍が聖地である火馬の郷(後述)への侵攻を止めたという過去がある。その後数度の小競り合いを経て、十年前に東乎瑠へ下り、現在はゆるやかな併合関係にある。
・アカファ王
原作:旧アカファ王国の国王。併合の過程で巧みに東乎瑠に恭順したため、帝国で一定の地位を与えられている。オーファンの企み(アカファ人には罹らぬ黒狼熱を蔓延させて、アカファから東乎瑠を追い出すこと)に望みをかけてしまうが、病がアカファ人にも罹ると知り、手を引く。
映画:アカファ王国の国王。緩やかな併合関係にある、との言葉から、国王としての地位は保たれている様子。
トゥーリムと画策して、オーファンを使い、鷹ノ儀と岩塩鉱の事件を起こさせるが、玉眼来訪において従軍の命を受け、従う。
・トゥーリム
原作:「アカファの生き字引」「アカファ王の懐刀」と呼ばれる男。アカファ王国時代は岩塩鉱の管理者だった。モルファ(後述)の総元締めでもある。もはやアカファが東乎瑠なしには存続し得ない地であることを理解しており、東乎瑠との関係調整にも尽力する。はじめは火馬の民達と繋がっていたが、アカファ王が手を引いてからは、ホッサルに病の収束を依頼するほか、モルファを使って彼らの企みを阻止しようとする。
映画:「アカファ王の懐刀」と呼ばれる男。アカファ王と画策し、病を広げようとする。病の抗体を持つヴァンを排除しようと、サエに暗殺の命を下すが、玉眼来訪には大人しく従い、東乎瑠への恭順の意を示すためか、乱入したオーファンを迎え撃っている。
東乎瑠(つおる)帝国
原作:アカファを併合した帝国。支配した辺境に東乎瑠人を入植させ、各地を緩やかに東乎瑠化している。東乎瑠人は獣の乳を飲まない。
映画:アカファを併合した帝国。かつて黒狼熱によって侵攻を止められたことがある。東乎瑠人は獣の乳を飲まない。
・清心教
原作:東乎瑠人の信じる宗教。穢れを忌避しており、東乎瑠人が乳製品を口にしないのは、獣の穢れを体に入れないようにする為である。また、病素を弱めた薬である弱毒薬(ワクチンのこと)を打つことも是としない。
東乎瑠の医者は清心教の祭司でもあり、東洋医学的な知識で治療を行うが、身体そのものを治すよりも、心を救うことに重きを置いている。
映画:名前と詳細は登場なし。迂多瑠に対し、ホッサルによるワクチン治療を拒むよう説得する祭司医たちが登場する。
・鷹ノ儀
原作:正式名は御前鷹ノ儀。アカファと東乎瑠の鷹匠が、鷹狩の腕を競い合う場。岩塩鉱の事件の後、この儀の最中に山犬が乱入し、アカファ人、東乎瑠人ともに多数が噛まれる事件が起こった。
映画:鷹狩り、もしくは鷹ノ儀という名前で登場。東乎瑠人の領主(迂多瑠)が山犬に襲われた事件。時系列が岩塩鉱より前に変更されており、物語開始時、すでに事件は起きたあとである。
・玉眼来訪
原作:東乎瑠皇帝が、支配地域に己の目の代わりとなる人物を送り、辺境経営を監査すること。定期的に各地を監査しており、アカファには三年に一度来訪がある。辺境地域の経営に大きな瑕疵があれば、領主は失脚する。
辺境運営の成果を披露する様々な行事(例:飛鹿の飼育に成功した東乎瑠の移住民を、飛鹿乗りの競技大会に出場させる)が行われるので、多くの観客が各地から集まる。
オーファンはこの行事に犬を率いて乱入する。
映画:皇帝みずからが征服地に来訪すること。かつて進軍を阻止された火馬の郷に入ることで、皇帝の威信を示し、負の歴史を塗り替える意図がある様子。具体的に何を行い、どうなるのかの詳細は語られないが、与多瑠も領主として軍を動員し、皇帝を迎え入れているほか、アカファ王とその兵士達にも従軍させていることから、軍事的な支配強化の意図も強いのかもしれない。
オーファンはこの行事に乱入し、病に操られたユナが山犬を率いて進軍する。
・王幡侯
原作:東乎瑠帝国の選帝侯で、アカファの領主。ホッサルに命を救われたことがある。
映画:登場なし。領主は息子の迂多瑠に変更されている。また、ホッサルが救ったのは皇妃ということになっている。
・迂多瑠
原作:王幡侯の長男。鷹ノ儀で山犬に噛まれ、黒狼熱に感染する。清心教の教えに従い、ホッサルによる治療を拒んで死亡する。
映画:東乎瑠の領主。皇帝の息子。物語開始時点で、すでに山犬に噛まれて発症している。ホッサルによる治療を拒んで死亡する。
・与多瑠
原作:王幡侯の次男。妻はアカファ王の姪(名はスルミナ)であり、迂多瑠よりもアカファに親和的である。
アカファの利益が自分達の利益に関わることに気づいており、本来はアカファの配下であるモルファとも通じて、情報を得ている。
映画:迂多瑠の弟。皇帝の息子。母である第二皇妃をホッサルによって救われたことがある。(第二皇妃という名称から察するに、迂多瑠とは母が異なる設定なのかもしれない)
病の終息のため、岩塩鉱から逃げたヴァンの行方を追わせるよう、(トゥーリム経由で)サエに命じる。兄の死後は領主となっている様子。過去の戦でヴァンと相対したことがある。
モルファ(跡追い)
・モルファ
原作:アカファ王に仕える一族。優れた狩人である。その跡追いの力により、常人には見つけられない痕跡を容易に発見し、密偵として活躍する。
アカファ王がオーファン達(火馬の民)を見限った後は、彼らの行動を阻止する為に動くが、それによって恨みを買い、オーファン死後、火馬の民によって襲撃される。
映画:サエは登場するが、跡追いとだけ説明される。概念ごと消されている様子。映画はオーファンの死亡で終わるため、その後のモルファを狙った襲撃事件も削除されている。
・サエ
原作:モルファの優れた跡追い。一度嫁いだが子ができず、夫と離縁して郷に戻った。岩塩鉱で生き残ったヴァンを追い、監視する。アカファの利益の為にヴァンを誘導するが、命を救い救われるなかでヴァンやユナと通じ合い、ともに行動するようになる。最終的にはモルファを捨て、ユナ達とともにヴァンを追いかけてゆく。
映画:アカファ配下の跡追い。家族を東乎瑠に殺され、東乎瑠を恨んでいる。岩塩鉱で生き残ったヴァンを追い、黒狼熱の抗体を持ったヴァンを殺そうとしていたが、ホッサルの仲裁により、二人と共に攫われたユナを探す。玉眼来訪では、犬を率いて去ろうとするヴァンを援護する。
・マルジ
原作:モルファの頭。サエの父。基本的にトゥーリムの命で動くが、与多瑠へも情報を与えている。アカファを裏切っているわけではなく、アカファも東乎瑠も互いに認識(暗黙の合意)の上で、それぞれが微妙なバランスをとって立ち回るため、情報を回す役目を負っているようである。
映画:登場なし。
考察
アカファと東乎瑠の現在の関係性や、オーファンとの繋がりの大枠は原作に近いが、東乎瑠側の人間を迂多瑠と与多瑠だけにし、整理しているほか、モルファという概念を消している。
歴史を変更したのは、オタワル(後述)人を省略した辻褄を合わせる為だろう。
この辺りの改変意図は、理解しやすい。
さて、映画において、視聴者に最も疑問を残したのは、玉眼来訪であろう。
原作未読者に対してはもちろん、既読者にも混乱を産む程度には、説明が不足していたように感じた。
ここで多少の解説を行いたいと思う。
原作における玉眼来訪とは、辺境支配の監査のことである。領主(王幡侯や与多瑠達)は、辺境支配が順調であることを、皇帝に派遣された監察官に示さねばならない。
逆にオーファン(火馬の民)からすれば、征服された民である自分達が事件を起こせば、辺境支配の失敗が露呈することとなるため、領主に大きな一撃を喰らわすことができる。
王幡侯や、王幡侯の支配なくしてはアカファが成り立たないとわかっているアカファ王側は、襲撃を阻止しようと動く。
映画では、かつて進軍を阻止された火馬の郷に、皇帝自らが出向く行事とされている。詳細や各陣営の思惑は不明確であるが、ケノイやオーファンはアカファの聖地である火馬の郷に皇帝が入ることを阻止しようとしたのだろう。
またアカファ王やトゥーリムは、「我々にも従軍の命が下った」「玉眼来訪には従う」などと話していることから、思いは様々あれど、オーファンを迎え撃つ立場となったのだと考えられる。
映画では、そもそも玉眼来訪がどんなものか、各陣営にどんな損得をもたらすのかが十分に説明されなかったため、「結局何だったのか」という疑問が残ったのだろう。
また、原作では、アカファ王が手を引いた(つまりオーファンを見捨てた)複数の理由が示されるが、映画ではそこが示されなかった。そのため、「なぜアカファ王達とオーファンは対立したのか」がわからなくなったのだろう。
なんだったらアカファ王に「黒狼熱はアカファ人には罹らないんじゃなかったのか。私は手を引くぞ。」とかいう直接的な台詞を言わせるくらいでよかったのではなかろうか。
おそらく映画の方針は、政治的駆け引きはできるだけ省略して、ヴァンとユナとの関係に重きを置くことだと考えられるので、アカファ王やらトゥーリムやらの立場にそこまで時間を使えなかったのかもしれない。
⒉黒狼熱(ミッツァル/ミツツァル)の変更
次に、病の描き方が大きく変わっていることを話さねばなるまい。
共通点
・黒狼熱はこの地で過去に流行した
・黒狼熱はアカファ人にはかからない
・黒狼熱の抗体は特定の地衣類を食べた獣の乳を飲むことで得られる
・東乎瑠人は乳を飲まないため抗体を持たない
・東乎瑠侵攻により東乎瑠風の生活を強いられたアカファ人は抗体を持たず発症する
異なる点
・病の歴史
原作:250年前に古オタワル王国(後述)で流行し、オタワル人は故郷を捨てた。オタワル王は病の流行が穏やかだったアカファの都主に王位を譲り、アカファ王国がはじまった。
映画:黒狼熱は数十年前にアカファ侵攻の際に猛威を振るい、最強を誇った東乎瑠軍を、わずか数日で壊滅に追いやった。これにより東乎瑠軍のアカファ征服は阻止された。
・病に対する理解
原作:病素を、単に宿主を殺すだけの悪者としては描いていない。人の身体が様々な極小の生き物の集合によって形作られていること、病素もまた宿主と共生しうることを示す。
映画:病と戦うための抗体の仕組みを説明する。ヴァンが「病に生かされているような気がする」と発言するシーンもあるが、ホッサルは、対処不明な病に対して諦めずに原因を探り、乗り越えて生きるという姿勢を貫く。
考察
黒狼熱の謎については、映画と原作で共通している。抗体を持つ地衣類と、それを食べる飛鹿やトナカイや火馬(映画では飛鹿のみ)の存在に気がつくことで、「黒狼熱にかからないアカファ人」の謎を解き明かしている。この構造は原作から変わっていない。
変わっているのは、病によって引き起こされる政治的意味だ。過去の黒狼熱がオタワルを滅亡に追いやった話が消され、東乎瑠を追い返した話に変化している。
これは、アカファと東乎瑠の関係性のみに絞るための工夫だろう。(次項で確認するが)映画ではオタワル人を概念ごと消してある。よってオタワル人の絡む歴史は改変し、「アカファ人にはかからない」の部分のみ強調した歴史に変えたのだと考えられる。
また、原作は「共生」まで描くが、映画はウイルスへの「対抗」のみを描く。
原作のアイディア元となったのはフランク・ライアン著『破壊する創造者』である(この内容については別記事参照)。ウイルスが宿主と共生関係を築き、生物を進化させてきたことを論じた書籍である。
“宿主を死へと導くことで知られるウイルスが、宿主に変化を促すこともある”というこの主張は、“多種多様な生物が複雑に絡み合いながら流れを生み出し、そこに生きる様々な立場の人々が選択を重ね物語を紡ぎ出す”という上橋作品の姿勢に非常に類似している。
私自身は、「共生」が本作の魅力だと感じていたので、映画でその価値観が削られてしまったのは大変残念だったのだが、しかし、2時間の映画では、抗体と病の仕組みを描くだけで精一杯だろうとも感じる。
“外部由来の病原菌に対抗する”という働きは、間違いなく人体で行われている。これは共生の大きなプロセスの一部だし、その価値観は間違っているわけではない。
そこが、言うなれば初学者向けっぽい点であり、映画に際して単純化した価値観なのだろう。
⒊オタワル人の消去
勢力全体の消去
・オタワル人
原作:アカファ王国より前にこの地を支配していた古オタワル王国の末裔。黒狼熱が原因で国が滅んだ後は、医術や土木、建築など様々な専門的知見を活かし、その時々の支配者(アカファや東乎瑠)を陰で支えている。その気質は「諸国を活かし、自らも生きよ」という標語にあらわれる。
映画:オタワル人は、映画中にホッサルしか登場しない。「オタワル深学院」や「オタワル生類院」といった名は出てくるが、そこには何の情報も乗っていない。どうやら、オタワル人という概念そのものが省略されているようである。
・〈奥〉
原作:オタワル人の持つ情報網を統括する組織。古オタワル王国時代は、王国各所に網の目を張り巡らせ、統治を円滑にする役割を負った。王国滅亡後も、その情報網でアカファ王国を陰から支えた。現在もアカファや東乎瑠と微妙なバランスを取る為に暗躍する。
映画:登場なし。
各人物の変更・消去
・ホッサル=ユグラウル
原作:古オタワル王家の始祖の血を引く高貴な家柄(聖八家)である、ユグラウル家の若主人。祖父譲りの優れた医療技術を持つ。病や病人に対しては誠実だが、気難しく頑固な一面もある。
黒狼熱に罹った者たちを治療するとともに、原因を探る。〈奥〉の依頼でユカタ地方に調査に出向き、ユナを追いかけてきたヴァンと出会う。病の原因を辿り、その裏にとある人物(ネタバレ配慮)がいることに気がつく。
映画:代々の医術をもって時の権力者に仕えてきたユグラウル家出身で、自身も高名な医師。難のある性格は消えて誠実な若者として描かれており、キャラクターデザインの良さも相まって完璧美男になっている。(余談:とにかくビジュが良い。この記事の筆者は、映画版ホッサルのあまりの顔面の強さに登場するたび笑ってしまい、話に集中できなくなってよく画面を早戻しする。)
黒狼熱を生き延びたヴァンの血を得るため、トゥーリム配下からヴァンを守ろうと彼に近づき、彼がユナを追いかける旅に同行する。ヴァンの血を得て治療法を確立する。火馬の郷に兵を進めれば治療法が失われると説き、与多瑠に玉眼来訪(東乎瑠の進軍)を止めさせる。
・リムエッル
原作:ホッサルの祖父。東乎瑠の皇妃を治し、オタワル医学を東乎瑠に認知させるきっかけを作った。オタワル医学を帝国に根付かせる為に心を砕いており、その為なら病を道具にすることも厭わない。
映画:登場なし。皇妃を救ったのはホッサルということになっている。
・ミラル
原作:ホッサルの助手兼恋人。地衣類を専門としており、黒狼熱の解明に大きく貢献する。平民なので、ホッサルと結ばれることはできない。
映画:登場なし。
・ルリヤとトマソル
原作:ルリヤはホッサルの義姉(父の再婚で姉となった)。ホッサルはかつて彼女に惹かれていた。
トマソルはルリヤの夫でホッサルの義兄。火馬の民に同情的で、彼の助手が事件に関わる。
映画:登場なし
・チイハナとロトマン
原作:チイハナは〈奥〉の元締めである老女。陰から事件を調整する。
ロトマンはオタワル深学院長。
映画:登場なし
考察
オタワル人は、ウイルスとよく似ている。
彼らは帝国内部に巧妙に入り込み、「諸国を活かし、自らも生きよ」という気質のもと、帝国を陰から支えたり、技術の進化に貢献したりすることで、自らも生きながらえていく。
これは動物の身体の中で共生し、宿主を進化させてきたウイルスの振る舞いと対応している。
つまりオタワル人は、ウイルスと人との「共生」を描く上で、必須の概念である。
そんなオタワル人を概念ごと消すのは、随分と勇気が要ったことだろう。
【意義】
おそらく、オタワル人の消去には、二つの意味がある。
①アカファと東乎瑠の二項対立を強調する為
ただでさえ病という難解なものをテーマにするのに、アカファとも東乎瑠とも微妙なバランスをとりつつ立ち回る第三勢力なぞ出したら、何が何やらわからなくなる。視聴者に二大勢力を理解させ易くする為に、オタワル人を消す必要があったのだろう。
②病との「共生」要素を排除する為
先述のように、映画は、ウイルスとの共生を描いていない。“病に対して諦めずに立ち向かう”という態度を全面に押し出している。「共生」でなく「対抗」に、テーマを変えたのだ。
「共生」を描かないとなると、“帝国と共生するオタワル人”を登場させる必要はない。どころか、登場させると話が一気に難解になってしまう。
情報量を削る為に、登場人物をホッサルのみに絞り、ホッサルからオタワル人という肩書きを削ったのだと考えられる。
【弊害】
しかしそうすると、別の問題が生じる。
ホッサルの立場が宙に浮くのだ。
東乎瑠人特有の額の刺青もなく、かといってアカファ人に肩入れもしない彼の立場がつかめない。
また、高名な医者とはいえ、与多瑠(領主の息子/映画では皇帝の息子)がホッサルに敬語を使うことに対する違和感が残る。
おそらく初見勢は「お前の立場は何なんだ」という疑問を持ったことだろう。
これは、まさに初学者向けの歴史によくある疑問である。
例えば中学歴史でいえば、第一次世界大戦のきっかけとなったサライェヴォ事件(オーストリア皇太子夫妻の銃殺事件)で、簡略化による弊害が確認できる。実行犯は「(親露派)セルビア人」だが、オーストリアのボスニア併合をめぐるセルビア人の反感や、オーストリアとロシアの汎ゲルマン主義/汎スラヴ主義の対立など、バルカン半島にある様々な問題を解説されないまま「セルビア人」とだけ言われても「お前はなんなんだ」という疑問だけが残ってしまう。
教師や解説書は、その違和感を解消するため、うまく補足して示すわけだが、本作ではそうした補足が少々不足していたように感じた。そこもまた、製作陣が苦労した点なのではなかろうか。
⒋ユカタ地方(火馬の郷)の変更
映画で「火馬の郷」と呼ばれる地域は、原作の「ユカタ地方」もしくはその一部である「ユカタ平原」のことであろう。
そこに住む氏族にも微妙な差異があるが、映画では簡略化のため、それらをまとめて「火馬の郷」と呼ぶことにしたのだと考えられる。
この地域とそこにまつわる人々を解説する。
ユカタ地方(全体)
原作:アカファ南部のユカタ地方は、概ね三つに分類される。
①火馬の民(アファル・オマ)の住むユカタ平原
②山地の民(オファル・オマ)の住むユカタ山地
③沼地の民(ユスラ・オマ)の住む沼沢地
太古の昔、この三氏族はひとつの民であったとされる。
映画:ユカタ地方を「火馬の郷」と呼び、三地方を区別しない。“アカファの聖地”と呼ばれる。
①火馬の民:オーファンやケノイを中心に描かれる。
②山地の民:登場なし。
③沼地の民:登場なし。ただし”タカアシ“と呼ばれる人々の元になった可能性がある。
ユカタ平原と火馬の民(アファル・オマ)
・ユカタ平原
原作:火馬の民が住んでいたが、東乎瑠のアカファ征服後、移住政策により東乎瑠人が多数入植する。東乎瑠人の持ち込んだ羊や黒麦により、従来の植生が崩れてしまう。火馬の民が移住民襲撃事件を起こし、この地を追われたため、今は東乎瑠人入植者だけが住んでいる。
映画:火馬の郷という名で登場する。アカファの聖地といわれる。かつてアカファ王国が東乎瑠に侵攻された際、黒狼熱が流行した。病を恐れた東乎瑠の進軍は止められ、火馬の郷は守られた。
・火馬(アファル)
原作:ユカタ平原に生息する火を思わせる赤毛の馬。小柄だが強靭。平原に住む人々は代々火馬を飼育しており、火馬の民と呼ばれる。
火馬の乳は万能の妙薬とされてきた。飛鹿やトナカイと同じく、特定の地衣類を食べることで黒狼熱の抗体を持つ生き物である。
火馬の民が故郷を追われた際に火馬も連れて行くが、寒冷な気候では強く育つことができない。
映画:オーファンたちが乗る、赤のたてがみと尾を持つ馬。ユカタ平原は映画では「火馬の郷」と呼ばれる。飛鹿には火馬の血が入っていると言われる。
・火馬の民(アファル・オマ)
原作:ユカタ平原を拠点とし、火馬(アファル)を育ててきた人々。黒狼と山犬をかけあわせた交雑種の犬を使役し、狩りを行う。
東乎瑠人の入植により植生が変わり、火馬やキンマの犬(後述)がうまく育たなくなったため、族長ケノイの弟が中心となり、東乎瑠人入植者の村を焼き討ちにした。
事件の責任を問われて、氏族すべてがユカタ平原を追われ、現在はトガ山地(ヴァンの故郷)など各所に散っている。
映画:火馬の郷の長であるオーファンとケノイは登場するが、そうした過去は描かれない。
・ケノイ
原作:火馬の民のかつての族長。焼き討ち事件を起こしたのは彼の弟である。事件のために一族が故郷を追われてからは、弟を諌めなかったことを長く悔いている。キンマの犬に噛まれて生き延びたことから、その身に黒狼熱の病素を宿し、同じく病素を持つ犬達を率いることができるようになった。黒狼熱に希望をかけ、犬を使って東乎瑠を追い出そうと画策する。また同じく病素を体に宿すヴァンを見つけ、協力を願い出る。玉眼来訪前に死亡する。
映画:犬の王。大樹の中に宿り犬を操る。玉眼来訪の知らせを受け、東乎瑠に再び黒狼熱の恐怖を思い出させるため、山犬を操ることを決意。岩塩鉱や鷹狩りでの事件を起こすほか、山犬を使ってユナを攫う。ヴァンを後継者にしようとするが、拒絶される。力を放出してヴァンやユナを操り、東乎瑠皇帝を襲撃しようとする(自身はおそらく死亡したのだと考えられる)。
・オーファン
原作:火馬の民の族長。ケノイの息子。自分達に賛同していたアカファ王が手を引いたことを見抜き、他氏族に責任が問われぬよう火馬の民のみの精鋭を率いて戦う。ケノイの死亡後、玉眼来訪に(キンマの犬ではない)犬を率いて乱入し、死亡するが、自らの死を囮に最後の計画をシカンに託す。
映画:火馬の郷の長。〈犬の王〉の後継には選ばれなかった。東乎瑠軍に囚われていたアカファ人の子供達を解放し、彼らから慕われている。皇帝の玉眼来訪によって、東乎瑠の大群が郷に入ることに危機感を覚え、火馬の郷を守る為に反乱を起こす。ケノイがユナ達を操ると、自らも玉眼来訪の場に侵攻し、東乎瑠皇帝の命を狙うが、射抜かれて死亡する。
・シカン
原作:ホッサルの義兄トマソルの助手。オーファン死後、彼の意思を継ぎ、モルファを襲うよう調教したキンマの犬を使って襲撃事件を起こす。
映画:名前のみ流用。火馬の郷でホッサルに話しかける医者。オタワル生類院で共に学んだといい、黒狼熱にかかった子供達の事情を説明する。
・キンマの犬
原作:キンマとは火馬の民が崇拝する神のこと。火馬の民は黒狼と山犬をかけあわせて生まれる交雑種の犬を使役するが、母犬に、病で死んだ火馬の肉を食べさせると、子が頑健になることから、そうして生まれた交雑種の犬を、キンマの神の贈り物と考え、〈キンマの犬〉と呼ぶ。黒狼熱の病素を宿しているため、噛まれると感染する。
映画:ケノイが操る犬。単に山犬とだけ言われる。病の病素を運ぶ。詳細は描かれない。
・〈犬の王〉
原作:ケノイが名乗った称号。犬を操る時の自分をそう呼ぶ。キンマの犬を操ることができるのは、同じ病素を体に宿して生き残ったものだけであり、そうした意味でも特別な称号である。
映画:犬に噛まれても死なず、犬を率いる特別な力を手に入れた者。ケノイのことであり、ヴァンやユナもその資格を得る。
ユカタ山地と山地の民(オファル・オマ)
・山地の民
原作:ユカタ山地に住む人々。火馬の民と同じ祖先を持つとされる。故郷を追われた火馬の民と違い、現在も山地に住んでいる。
映画:登場なし。
・〈奥仕え〉
原作:オタワルの聖なる人々に仕え、諜報など〈奥〉の仕事をつとめる人々。各地に存在する。ユカタ山地の民の中では、マコウカンの実家であるシノック家が〈奥仕え〉の家系にあたる。
映画:登場なし。
・マコウカン
原作:ホッサルの従者。ユカタ山地の民の〈奥仕え〉の家系に生まれたが、〈奥〉に対する不信感からその役目を拒み、十五で出奔する。賭け闘士となったが、死にかけた時にホッサルに救われ、彼の従者となった。
映画:ホッサルの従者。元剣闘士。出身地も、奥や奥仕えとの関わりも描かれない。
・イリア
原作:マコウカンの姉。かつて兄と共に〈奥仕え〉の仕事をしていたが、背信行為をした兄を自らの手で殺し、忠誠を示した。この事件が、マコウカンが〈奥〉に不信感を持つきっかけとなった。
映画:登場なし
沼沢地と沼地の民(ユスラ・オマ)
・沼地の民
原作:ごく小さな氏族で、火馬の民の下層民。火馬の民に仕えていたため、彼らの起こした襲撃事件に関わった者もいる。関係者の一部は処罰されたが、大半は今もユカタ地方の沼沢地に住んでいる。
映画:登場なし。ただし、火馬の郷に向かう沼地で襲撃してきた、長い木の棒を竹馬のように乗りこなしていたアカファ人達(タカアシと呼ばれていた)は、沼地の民をイメージして作られた可能性がある。
・ユナ
原作:岩塩鉱でヴァンが拾った幼子。沼地の民の女と、東乎瑠人奴隷監督の子。襲撃事件に関わったことで、岩塩鉱の家事奴隷となった沼地の民の女が、岩塩鉱の奴隷監督に孕まされてできた。火馬の乳で作った乾酪を母が食べさせていたため、黒狼熱に耐性があった。
映画:岩塩鉱でヴァンが拾った幼子。もとは岩塩鉱で気のふれた女に、近くの村からあてがわれた孤児だった。過去にトナカイの乳搾りをよくおこなっていたと発言していることから、実の親との暮らしの中でトナカイの乳を飲んでおり、黒狼熱に耐性ができていたと考えられる。
・ナッカ
原作:オーファンに命じられ、ユナをさらった男。ユナの母の兄(ユナの叔父)にあたる。
映画:登場なし。ケノイが山犬を操ることでユナをう展開に変更されている。
考察
最初の感想は、「大変だったろうな」に尽きる。このような膨大な事情と思惑を抱える人々を削るなんて……。
例えば、「火馬の郷」という名称や、ケノイの操る山犬、ユナの出自など、三氏族と黒狼熱の説明を簡素化しつつ辻褄を合わせるために様々な省略と改変がおこなわれている。
原作のユカタ地方は、一枚岩でない類似勢力の巣窟なので、映画において、まずユカタの三地方を「火馬の郷」とまとめたのは、(短縮と簡略化の為には)かなり意義のある改変だと思う。
ただし「聖地」という、印象的ではあるが曖昧な言葉で表現してしまったのが、かえってわかりづらさを産んでいると感じた。
元からアカファにとって重要な土地であったのか、東乎瑠が侵攻できなかったから聖地と呼ばれるようになったのか。また、進軍は止められたというが、東乎瑠の支配下ではあるのか、完全に独立を維持しているのか。その辺りが分かりづらい。実情がわからない状態では、何を守りたくて行動を起こすのかもわからないだろう。
台詞を丁寧に確認していった感じ、火馬の郷は、古くより聖地とされた場所のようだ。東乎瑠の支配下にはあるが、東乎瑠への反発が激しい土地のようだ。玉眼来訪への不安や不満から、各地で東乎瑠人の支配者達を迫害する運動が起こっている様子が描かれている。
ケノイとオーファンは玉眼来訪によって東乎瑠の大軍が火馬の郷に押し寄せることを危惧している。黒狼熱を運ぶ山犬を玉眼来訪の場に乱入させるのは、病の恐怖を東乎瑠に再度知らしめるためであるらしい。
山犬を操れるのは黒狼熱にかかって生き延びた者だけ、というのは原作と大きくは変わらない。映画で〈キンマの犬〉の名を消したのも、物語の簡素化のためには必須措置だったろう。
原作における、キンマの犬とダニにたかられた火馬の話は、火馬の民(ケノイとオーファンたち)が郷を追われた原因と深く関わる、非常に興味深い話ではあるのだが、映画の尺では、天地がひっくり返っても絶対に分かりやすく説明できない。私でも絶対に削る。
なんだったら、〈犬の王〉という名前も削ってよかったんじゃないかと思う。
理由は2つある。
①〈犬の王〉という言葉は、原作においてはケノイが自ら名乗った称号であり、あまり多くは説明されない。もちろん無意味な言葉ではなかろうが、簡素化必須の映画媒体なら「ケノイの後継ぎ」くらいの言い方で十分事足りるのではなかろうか。
②〈犬の王〉は、この作品のタイトルにして最重要単語である〈鹿の王〉と似た名前である。故に、強調しすぎると混乱を生む。
厄介なことに〈犬の王〉と〈鹿の王〉は、名前が似ているだけで、性質も意味合いも全く異なる概念である。方や“犬を操る力を持った者”の称号、方や“仲間のために半歩前に踏み出さざるを得ない、強くも悲しい個体”の呼び名である。
原作において〈鹿の王〉という言葉が出てくるのは下巻の後半である。クライマックスに向かって、鹿の王と呼ばれる者達の振る舞いや解釈が描かれ、ヴァンやサエの生き方に、新たな解釈を生むのだ。
しかし映画において〈鹿の王〉は、前半で会話に出てきたのち、一度も登場しない。そこが大変勿体無いと思う。
人は何度も出てくる言葉を覚えてしまうものだ。ヴァンの生き方を示す最重要単語が、後半に繰り返される〈犬の王〉という単語によって霞んでしまうのは、悲しいものである。
だから、なんなら〈犬の王〉という単語も、映画では消してしまって良かったのではないかと思うわけである。
ユナについても大きな設定変更が起こっている。ここの変更にも、多大な苦労を感じる。
絶対に残さないといけないのは「岩塩鉱で生き残った」事実であり、そのためには「黒狼熱の抗体を持っていた」ことを示さねばならない。
原作においては、“沼地の民の祖父が岩塩鉱の家事奴隷となった娘に貴重な火馬の乳でできた乾酪を贈ったが、娘は幼い孫にその乾酪を全てあげてしまった”といういきさつで、ユナだけが生き残り、その母は死んだとされている。
そのエピソードは大変心に沁みるものではあるが、それを描くには、沼地の民とは何か、なぜユナの母は家事奴隷となっているか、なぜ火馬の乾酪をユナだけ食べていたか、等々、長々と説明せねばならないだろう。
だから、出自そのものを変えて、”アカファでトナカイの乳を飲んでいたから“というシンプルなものに変えたのだ。しかしそうすると共に食事をしていたはずのユナの母が生き残らなかったのはおかしい。そこを解決するために、”岩塩鉱で気の触れた女(トナカイの乳を飲む習慣はない)に、近くの村(トナカイの乳を飲む習慣がある)からあてがわれた孤児“という設定にしたのだと考えられる。
このあたりを見ると、部分的に消して語ることの大変さを痛感する。「消すなら全部消す方が楽」だよなとしみじみ思う。
例の「初学者向けの歴史」の例えを出すならば、中東戦争なんかが良い例だろう。
中東戦争は、中学歴史において、石油危機にまつわる“第四次中東戦争”が名前のみ登場するだけである。ここを解説しようと思ったら、ユダヤ教とイスラーム教から、イェルサレムの意味、大戦時のイギリスの三枚舌外交、スエズ運河を巡る各国の思惑まで、ありとあらゆる要素を語らねばならない。これを一部分だけ取り出して説明するのは大変骨が折れる作業である。
例えばスエズ運河を省略すると、エジプトがなぜそう何度も戦っているのかわからないし、外交を省くと、ただの宗教戦争となってしまい、宗教への偏見を助長してしまう。何も語らず全省略するのがいかに楽かは言うまでもない。けれど、そうはいかないものだ。
本作のユカタ地方を巡る諸相は、展開上全てを省略することができない。故に、非常に難関な辻褄合わせが多数行われた例だと言えよう。
⒌ヨミダの森
次に、映画で完全に削除された箇所の話をする。場所の名前はおろか、人物も誰一人登場しない。
しかし、病を扱うこの物語において、もう一つの視座を与えてくれる、重要な箇所でもあるので、是非とも知ってほしい。
原作では、病に対する3方向のアプローチが描かれる。
①清心教:東洋医学と宗教を合わせた姿勢
②オタワル医学:西洋医学的な治療
③谺主:呪術的かつ民間に根差した療法
映画では③の立場は完全に削られたので、さわりの部分のみ押さえて、原作においてどんな意味があったのか語ろうと思う。
谺主スオッルの削除
・ヨミダの森
原作:火山近くにある森。温泉が湧いている為、湯治に来るものが多く、そこを拠点にしている谺主に、身体(や魂)を看てもらう者も後をたたない。
映画:登場なし
・スオッル
原作:谺主(こだまぬし)という、呪術師のような存在である。動物の魂に乗り、人の魂を追う。西洋医学(オタワル医学)と東洋医学(清心教)のどちらでもない所から人間の体と病を見つめる第3の眼差し。
彼曰く「人の身体は森」である。
映画:なし
彼は、方向性で言えば『守り人』シリーズのトロガイ達呪術師に近い。魂を追いかけ、科学とは異なる見地から、病を見る。
ただし、彼の見解には、ホッサルと非常によく似た部分があり、それが、ヴァンが病を理解するのに多いに貢献している。
以下は、彼の「人の身体は森」という主張である。
興味深い見解である。
続いてホッサルが、身体を社会に例えたところも引用する。
『鹿の王』において、彼ら二人の見解は相補的な関係にある。
ホッサルの知識は西洋医学的であるから、物語世界的には新しいが、我々読者(視聴者)にとっては自明である。
逆にスオッルの知見は、物語世界の感覚に近しく、我々の感覚から遠い。
ということは、この物語は、ホッサルだけではなくスオッルがいることで世界と知識が地続きになるのだろう。彼ら二人が、立場が違うのに本質的に同じことを言っているとき、ヴァンも我々も、各文化圏に存在する知の普遍性を知るわけだ。
そう考えると、映画で彼が省かれたのは、悲しいながらも必然と言わざるを得ない。
ウイルスについて現代人に理解して欲しければ、ホッサルだけで十分(かつ精一杯)なのだ。スオッルの説明は我々の身近な現代的概念から一段階遠いうえに、獲得できる知見はその一歩先である。
よって、時間的制約と分かりやすさを取ればまず真っ先に排除される。
オタワル人の「共生」的姿勢すらも省くほど時間が足りないのに、スオッルを描くことなど到底できないのだ。
私自身は、一読者として、ホッサルとスオッルの知見を重ねた先にあるものこそが本質に近い部分だと感じている。けれど、それは映画で描けるものではない。
スオッルの排除は、映画に向かないものを省略した結果なのだと思う。
〈裏返り〉の考察
映画中盤で「裏返り」という言葉が出てくる。
ケノイが説明する言葉だが、本来これは、身体と魂を別物と考える谺主スオッルの説いた概念である。
スオッルや彼の呪術的価値観が消去されたために、その説明がケノイに移行したのだろう。
・裏返し(オッファ)
原作:魂を飛ばすスオッルが説明する。身体の自分と魂の自分が入れ替わること。その際に生命の光が繋がって見える。無数の命がより集まってできる森や身体を想起させる概念。オタワル医学では、病素が生き延びる為に宿主の脳を操ると説明される。
映画:裏返りと呼ばれる。ヴァンと同じように、犬を操る力を持つケノイが説明する。風や草花、鳥獣など、あらゆる命を感じてつながること。
映画の流れの中でこの裏返しの概念を知ると、これまで医学的見地に基づいて進めてきた展開が、急なファンタジー感によって崩れてしまうように感じる人もいるかもしれない。
この物語が本来、三者三様の価値観で命に対して向き合っていることを理解すれば、この裏返りという概念についても、いくらか唐突具合は緩和されるのではなかろうか。
『鹿の王』をヴァンの物語として解釈するなら、病で家族を亡くした男が、その理不尽を受け入れる物語だと、言うことができる。
「なぜ妻と息子は死なねばならなかったのか」「なぜ病で死ぬ者と死なぬ者がいるのか」「病とは何か」。このわだかまりに対して決着をつける術を持たなかった男が、黒狼熱を通して、多くの人々の病や生命に対する価値観に触れる。そうして、過去から解放される一面もあるのではないか。
であるならば、ヴァンの身に起こったことは、「病を操る不思議な力を得た」という単純な話ではない。「生命が世界と結びついて一つの巨大な生命体をかたちづくる、この世のありようの理解を得た」のだ。それをホッサルの立場から言語化したのが「病素が宿主を操ること」であり、スオッルが言語化したのが「裏返し」なのだ。
映画の難しいところは、谺主を削除してケノイの台詞にしたことで、生命に理解に繋がるこの力が、病を運ぶ犬を操る危険な能力の一部として捉えられかねないところではなかろうか。
犬を操る力生命と繋がって見える意味が、物語世界のなかで浮いてしまったのかもしれない。
事項でさらに考察する。
⒍ヴァンとユナの変更
最後に、どの勢力とも言い難い主人公ヴァンを解釈すると共に、登場する生物の変更を見ておきたい。
動植物は映像でもっていきいきと描かれていたが、やはり説明がないと通常の馬や鹿などとの違いも理解しづらいだろう。飛鹿や独角を中心に違いを確認する。
また映画の主軸となったユナとの関係を考察する。
飛鹿と独角
・飛鹿(ぴゅいか)
原作:鹿の一種。非常に足腰が強靭で、馬でも駆けられぬ山岳地帯や断崖を軽々と駆け抜ける。ヴァンの故郷トガ山地では飛鹿の飼育が長く行われており、熟達した飛鹿乗りが多数見られた。
独角との戦いで飛鹿の価値を知った東乎瑠は、移住民や他氏族に飛鹿飼育を推奨しはじめた。飛鹿を飼うと減税措置があるため、慣れない飼育を始める人々が多い。
映画:鹿。山を自在に駆けるシーンが描かれる。先の戦で飛鹿乗り(独角)に苦しめられたため、帝国軍は飛鹿育成を強化している。飛鹿を増やせると東乎瑠の軍隊が高く買い上げてくれるという。
過去にはアカファでも飛鹿を飼い、乳を飲む人々がいたようだが、東乎瑠の軍隊が暴れ回った頃に飛鹿が姿を見せなくなった。飛鹿の飼育が非常に困難であるのは、その頃に飛鹿飼育の方法が失われたからである。
火馬の郷には飛鹿が多数生息しており、オーファンがヴァンを誘う際には「飛鹿には火馬の血が入っている」こと「火馬の郷は飛鹿にとっても聖地である」ことを挙げている。
・独角
原作:家族を亡くして通常の生き方から外れてしまった男たちの集団。いざとなれば氏族のために命を捨てることを条件に、氏族の掟から外れて生きる。東乎瑠の侵略に対し、トガ山地民がより良い条件で降伏するため、徹底抗戦を訴える強硬な戦士団を演じ、頭のヴァンを残して死んだ。
映画:東乎瑠が侵略した際にアカファを守った飛鹿乗りの戦士団。彼らのおかげで東乎瑠との和平が成立した。皆死んだと言われている。
・ヴァン
原作:ガンサ氏族の出身。独角の頭として、氏族の為に東乎瑠と戦った。最後の戦い(カシュナ河畔の戦い)で唯一生き残り、岩塩鉱の奴隷となっていた。
妻と息子を病で亡くし、生きる意味を失っているが、ユナと出会い、病と関わるなかで、人生を再解釈していく。病素を宿すキンマの犬が生きていけるよう、去っていく。
映画:独角の頭として、アカファの為に東乎瑠と戦った。最後の戦い(カシュナ河畔の戦い)で唯一生き残り、岩塩鉱の奴隷となっていた。
ユナと出会い、生きる意味を見つけ、病に操られることを拒む。最後はユナを救い、一人犬を率いて森へ去っていく。
・オラハ(暁)
原作:ヴァンが独角であった頃に乗っていたリアフ(雷雲)の子。オラハが子供の頃にヴァント絆を結んでおり、トガ山地で再開したのち、ともに旅をするようになる。
映画:オキ地方で飼われている飛鹿の一頭。ユナが攫われたときにヴァンが乗って追いかけたため、最後まで旅に同行する。
・アッシミ
原作:飛鹿が好んで食べる地衣類。黒狼熱を抑える効果がある。
映画:三つ葉のような形の植物。飛鹿が好んで食べる。黒狼熱を抑える効果がある。
・モホキ
原作:植物。飛鹿は匂いを嫌うため、飛鹿の囲いに使う。
映画:登場なし。アッシミに変更されている。飛鹿はアッシミを食べるので、囲いに使うのは矛盾するが、精神が落ち着いて暴れなくなる、という意味づけに変えているのかもしれない。
ユナとヴァンの関係や行動
映画ではヴァンとユナが軸となり、二人の関係が大きなテーマとなっているので、違いを考察したい。
共通点
・岩塩鉱で共に生き延びる
・トマと出会い、オキ地方で暮らす
・ユナがケノイ達に攫われ、追いかけていく
・ユカタ地方(映画では火馬の郷)でユナと再会する
・二人とも病によって裏返り、山犬と繋がる
・ユナは地衣類が光って見える
・ユナと出会ってヴァンは生きる意味を得る
相違点
・ユナの攫われ方(沼地の民の男によって/映画ではケノイによって操られて)
・鹿笛を作る約束(映画オリジナル)
・病を通してケノイと繋がるが、病を受け入れることを拒む(展開と理由が異なる)
・病に操られて利用されるユナ(映画オリジナル)
旅の流れとしては概ね同じだが、二人の関係を軸にするなかで、オリジナル要素が多数追加されている、といったところだろうか。
考察
病に対する態度については、ホッサルや黒狼熱の項で触れたが、ヴァンについても違う。
映画のクライマックスは、「ユナと共に生きるために病に抗う」という展開になっている。
つまり、ホッサルと同じく「病に対抗する」のだ。
原作はもう少し複雑である。
黒狼熱についての項で触れたが、原作の黒狼熱は悪ではない。病素は宿主と共生するひとつの生命体である。病素は増える為に感染者を増やそうとする。よって、ヴァンは病を経たあとは、ときに「噛みたい」という衝動や、犬と共に行動したいという衝動を持つようになる。
その衝動を忌避する気持ちは原作にも描かれる。
しかし原作ではその後ホッサルやスオッル(谺主)と話し、人体と病についての知見を得る。病によって人間社会に引き起こす災いは退けつつも、病との共生を探している。最後に犬を率いて森へ消えるのは映画も原作も共通であるが、映画ではその理由が描かれないし、視覚的には病素を浄化しているように見える為、その後森へ消える理由が釈然としないのだろう。
これは、「病を抱いたままでも、生きていけるところへ」行くための行動なのだ。
おそらく映画における紫のオーラ(?)は、「噛みたい」「増えたい」という病素の欲求だ。スオッル風に言えば、これが「魂の自分と身体の自分が裏返った」状態だろう。そして金色のオーラは、それを抑制する人間としての心なのだろう。
映画はその設定をきちんと映像にしてくれたのかもしれない。そのうえで、複雑な説明が要らないように「裏返った」状態が悪であるかのような印象をつけてあるのだろう。
惜しむらくは、病が浄化されたように見えてしまった点だろうか。病を抱えたまま去っていく犬達と、それを率いる飛鹿乗りは、病もまたひとつの命であることを描いている。私はそのように解釈している。
まとめ
以上、大変長々とまとめてきたが、私が重要な変更であると感じている点については、一応はおおよその確認と言語化ができたのではなかろうか。
今後も加筆を続ける予定ではあるが、ひとまずここでまとめておきたい。
原作の『鹿の王』は、病の善悪を論じない物語だと、私は感じている。どこかが絶対的な善であることはない。様々な生物がより集まってできている人体や森、社会。それらを共生という視点から多角的に描く物語である。
原作の大変美しいところは、人間と病原菌との共生を、帝国と共生しようとする異民族(ヴァンやホッサル)と重ねて描く点だ。
“人間と病原菌”の関係が“帝国と異民族”の関係と美しく対応している。社会と病と自然を同時に描き、その他層構造で魅せるのがこの作品の魅力だと思う。
しかし、人間の体の複雑な諸相を説明して、共生関係まで語るには、映画という媒体はあまりにも向かない。よって、映画は病原菌を暫定悪とし、ホッサルを正義側(帝国側)、ヴァンとユナを境界線においたうえで、オーファンを悪者(異民族側)にして打ち勝った……という話としてまとまっているように思う。
奇しくも上映当時はコロナ禍であり、「病に立ち向かう」映画は、原作の「共生」よりも大衆に受け入れられやすいものだっただろう。
オタワル人や谺主を描かず、異民族の反乱を悪要素強めに描いた映画は、私の解釈とは異なるわけだが、しかし作者が描いた多層構造のうちの、一部に絞って描いたのだと、そう解釈することもできよう。冒頭から何度も述べている「初学者向けの歴史」とは、そういう意味でもある。
原作を好んでいるだけのいちファンが偉そうに言えるものではないが、正直、この映画について考えれば考えるほど「2時間でよくやったよな…」という感慨ばかりが湧いてくる。
2時間でこの全部を書くのははなから無理すぎるのに、あらゆる背景を捨象してヴァンを中心とした物語に再編するのは、いかに大変だったことだろうか。苦労が偲ばれる。
たくさんの要素を含むこの物語を、どのように切り取るかは、製作陣によって異なるのだろう。
物語の何を大切に受け取っているかは、視聴者一人一人によっても異なる。そういった意味でも、本作の映像化は大変だったに違いない。
この映画を好んだ人、好まなかった人、どの価値観も否定されるべきではない。個人的な意見も複数かいてしまったが、映画を理解したいという思惑が、ここまで読んでくださった皆様に伝わっていれば幸いである。
『鹿の王』に関連して、『破壊する創造者』についてまとめた記事と、上橋作品について語った記事を挙げておきます。興味がある方は是非。
読んでいただきありがとうございました。
宇宮7号